「ちむどんどん」が描かないもの
NHKのドラマ「ちむどんどん」。1960年代の沖縄島北部の架空の「やんばる村」から始まり、川崎市に舞台を移し、料理人を目指す女性の成長を描く物語だ。「やんばるの森」が2021年ユネスコの世界自然遺産に指定され地元が沸き返る中、全国放送されるドラマの舞台になった。観光誘客の後押しになると期待の声も上がる。
しかし、前評判ほどの関心は抱かれていないようだ。
「復帰」50年の節目なのだから、当時の沖縄の状況が写し取られるものだと期待があった。私は、主人公より8歳下。子どもだったが「復帰」の記憶をもつ世代としてドラマに違和感を抱いた一人だ。当時はベトナム戦争の最中で、どこにでも米兵の姿が見られたからだ。軍道1号(現国道58号)をトラックの荷台に座り移動する米兵たちに、子どもたちは反戦シンボルVサインを向けて、ピースと呼び掛けていた。1968年にベトナムに出撃するB52が嘉手納飛行場に墜落した時に、激しい抗議が起きた。耳で聞いたままに「ビーコニ、テッコ」と記憶したのはシュプレヒコール「B52撤去」。地鳴りのような響きを立てるデモ隊が脳裏に焼き付く。当時の沖縄はベトナム戦争と直結していた。しかし「ちむどんどん」にそんな殺伐とした様子は映らない。現実から伝えたい部分を切りとってきれいにまとめた、そんな印象を抱いた。
「やんばる村」は架空だが、主人公の実家のロケ地は北部の東村高江(ひがしそんたかえ)だ。集落から約2キロ離れた山中に米軍北部訓練場がある。60年代、訓練場には「ベトナム村」が造られた。ベトナムの戦場を模し、丸太を突き立てて米兵の攻撃に備える仕掛けなどを再現した。演習で、高江住民はベトナム人役を務めるように強制動員された。従わざるを得なかったのは、生活を支えた山への出入りを米軍に禁じられないためだった。現在の高江は集落を囲むように米軍ヘリパッドが設置される。2017年民間牧草地に米軍ヘリCH53Eが墜落し炎上した。米軍に圧迫され続けている住民が、抗議活動をしている地域だ。その高江がロケ地なのだが、米軍の姿は見えない。娯楽性を追うドラマが現実を全て反映することはない。しかし、「復帰」によって米軍基地撤去を求めた沖縄の人々の思いが砕かれ、さらに現在、辺野古に新基地建設工事が進む「復帰」50年。その年に放映される、歴史も現在も映さないドラマ「ちむどんどん」。それは皮肉な虚構の沖縄を語っている。
見えないものが染み出る時
この地図は、沖縄島にある米軍施設(専用施設)をくりぬいて示した。通常、地図で米軍基地を示す場合は別の色で示すことが多い。だが、そんな地図を上空から俯瞰する視点から眺めても、そこに住む人々の生活実感は伝わらない。むしろ入れない場所は地図から消してしまうほうが分かりやすいと思う。沖縄を訪れたことがある人なら、国道沿いの長い金網の向こうに米軍基地を見たことがあるだろう。しかし見えているようで見えないのが米軍基地の本質だ。
米軍が基地を造るのに適したのは平たんで水源がある場所だった。それは人が住むのに適した場所だ。だから、米軍基地となった場所は、沖縄戦前は集落や水田や畑があった。米軍によって集落が潰された人々は、戻ることができず基地周辺に金網にへばりつくように住んでいる。そんな土地すら確保できず離散して消えた集落も多い。村が消えれば人々の生きた軌跡や経験、継承してきた伝統や文化も消えてしまう。
米軍基地をくりぬきで示したのは沖縄の人々が自由に入れないだけでなく、そこが日本の法律が届かない米軍の論理が優先する空間であることを示すためでもある。それを支えるのが日本と米国が取り決めた日米地位協定だ。そのために、米軍基地の中では、何が起こっているのかが分からない。さらに、最近になって米軍基地から被害が「染み出す」ことが次々と明らかになった。
2021年12月、沖縄県内で新型コロナ感染は沈静化しつつあった。しかし、金武町のキャンプ・ハンセンで「オミクロン株」のクラスターが発生し、米兵と基地労働者に広がり、またたく間に基地の外へも広がった。海外から米軍が日本に移動してきても、軍用機で直接米軍基地に入る場合、日本の検疫を受ける必要がないと、日米地位協定は定めている。1月下旬に沖縄県内は連日1000人以上の新規感染者が出た。
米軍基地から有害な物質が、沖縄の人々の居住地域に「染み出す」。米軍普天間飛行場から有害な有機フッ素化合物PFASを含む泡消火剤が漏れ出す事故が2019、2020年と相次いだ。後者は14万トン(ドラム缶719本分)が流れ出し、大きな泡の塊が大量に住宅街を浮遊した。PFASは自然界では分解されず、体内に蓄積すると発がん性の危険がある。『琉球新報』が河川水分析を京都大学に依頼した結果、地下水汚染を判断する米国の指標値の6倍の247ナノグラムが含まれていたという。地下水脈にフェンスはない。米軍基地から流れでたPFAS混じりの危険な汚水が営々と住民の生活用水に流れ込んでいる。
嘉手納町では米軍嘉手納飛行場の機体洗浄や消火剤として使われたことによって、地域住民が大切にしてきた地域の湧き水や住宅の井戸がPFASで汚染されていることが、琉球朝日放送の精力的取材で明らかになった(復帰50年特別番組『命ぬ水 映し出された沖縄の50年』琉球朝日放送)。
また、米軍基地からの「染み出す」被害は、コロナ以外の感染症でも起きている。米国のベトナム参戦により沖縄の基地は出撃と兵站を担った。米兵の大量駐留によって基地の中から、この時沖縄の人々へ風疹が広がったといわれる。米国では1964年風疹が大流行しており、同時期に沖縄でも流行した。先天性風疹症候群の408人の子どもが生まれた。当時沖縄の関係者は指摘したが、最近の調査や研究がベトナム戦争による米兵の移動との関連を明らかにしつつある。この問題を指摘した沖縄大学教授の若林千代は、「米軍基地の『ブラックボックス』化が改めてクローズアップ」されたとし、背景に地位協定、安保体制の枠組みの問題を指摘している。
焼失した首里城が意味するもの
1945年の沖縄戦時に焼失し1992年に再建された首里城正殿は、2019年の火災で焼失した。その朝、焼け落ちた首里城が見える場所には、茫然とした人々がたたずんでいた。私もその一人だった。首里城が再建されて何度も足を運んでいたがそれほど愛着があったわけではない。しかし、焼け落ちたのちにその存在が実は琉球・沖縄の歴史を日常の中に見せる存在だったことに気付かされた。沖縄戦で焼けた首里城の跡地に米軍が大学を造った。「復帰」後、戦前の姿を知る世代が期成会をつくり、移転した大学跡地での復元に結び付けた首里。場所の記憶を塗り替え、見えなかった物が姿を現すこと。その意味を、失って初めて気付かされた。
沖縄戦では戦闘後のマラリア死も含め25万人の命が失われた。焼き尽くされ破壊され尽くした沖縄で、歴史を伝えた文化財や文物は各地の王や按司(豪族)の居城でもあったグスク(城)の石垣などだった。豊かな琉球文化を語った寺院など木造建築、文物は焼き尽くされたからだ。こうした状況で、首里城はかつての琉球王国を目に見える形で再現していたといえる。県外や海外の人々が沖縄を訪れ文化的豊かさと見る首里城は、沖縄の人々には失われた歴史を語り伝える場だったといえる。
沖縄の人々は先達の歩みを歴史として学校で学ぶことはほとんどない。私は大学の非常勤講師として沖縄史を教えているが、講義で約150年までは琉球王国があったと話すと驚く学生が多い。中山(ちゅうざん)による統一によって琉球王国が誕生したこと、各地域の王の英雄譚は知っている。しかし、それが近現代史に結びつき現在の沖縄を規定していることを知らないのだ。
こうした状況で、首里城はこれまで多くの人が学ぶことがなかった琉球・沖縄の歴史を気付かせ、中国の明・清、日本という大国の間で苦労しながら生き延びてきた琉球・沖縄の先達の姿を思い起こさせる。米軍基地問題で苦しむ沖縄がこれまで、これからいかに生き延びていくのか、先達の歴史を振り返りながら考える。そうしたことを考えるきっかけとなったのが、目に見える首里城だったといえるだろう。
「復帰」50年に、ほとんどのマスメディアが、沖縄の日本への「復帰」があたかも自明であったかのような視点から報道していた。沖縄の人々が抱いた「復帰」すれば米軍基地がなくなるという思いは打ち砕かれた。「復帰」50年に、「復帰」が本当に自明だったのかを問い直す声は高まる。焼失した首里城はそれを問い直す場だともいえる。
謝花直美 じゃはな・なおみ
1962年、沖縄生まれ。大阪大学大学院博士後期課程修了。1990年、沖縄タイムス社入社。おもに沖縄戦・戦後史、生活報道に取り組み、徹底した現場取材に定評がある。2018年から沖縄大学地域研究所特別研究員。単著に『沈黙の記憶1948年、砲弾の島・伊江島米軍LCT爆発事件』(インパクト出版会)、『証言沖縄「集団自決」 慶良間諸島で何が起きたか」(岩波書店)、『戦後沖縄と復興の「異音」 米軍占領下復興を求めた人々の生存と希望』(有志舎)など。
出典:日本YWCA機関紙2022年8月号「琉球・沖縄の想いを聴く」
YWCAは、キリスト教を基盤に、世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進め、人権や健康や環境が守られる平和な世界を実現する国際NGOです。