「主の平和」キリスト教的あいさつの意義 與賀田光嗣 【宗教リテラシー向上委員会】

学校勤務をしていると毎日生徒たちとあいさつを交わす。学内におけるあいさつは大切である。何も礼儀やマナーを身につけるためだけではない。自分は無視される存在ではない、大切な存在なのだ、と実感することこそが教育機関におけるあいさつの意味だと考えている。生徒から教員にすることを強制するものではなく、教員から生徒へ思いを伝えるために必要なものなのだ。だからこそ、あいさつという行為が形骸化しては意味がなくなってしまう。

帰国した直後、娘が近くの小学校へ通い始めた。学校では当然のようにあいさつを大切にしようと教えていた。イギリスの地方で育った娘は違和感を覚えたという。イギリスでは行き交う人々があいさつを交わしていた。すれ違う人が微笑みながら「Hi」と声を掛け合っていた。それが娘にとってのあいさつだった。だから彼女は日本の通学路で出会う人すべてにあいさつをした。しかし、誰も自分から私にあいさつはしてくれなかった、なぜなのかと娘は問うた。

しばらくして、彼女は学校でのあいさつが嫌だとつぶやいた。小学校ではあいさつ運動をしており、正門前であいさつ委員の小学生たちが大声で「おはようございます」と声を張り上げている。それが彼女の目には威圧的に映った。先生が教える「正しいあいさつ」「正しい表情」にも嫌悪感を覚えた。運動会の準備では、楽しんでいる表情を出すようにと言われたようだ。それは嘘ではないか、と彼女は思った。学校ではあいさつの大切さを教えるというのに、学校の外の世界とのギャップが彼女を悩ませた。

このことを文化的な違いだと考えることもできるだろう。多文化多人種の世界では、互いが敵ではないということを示すためにあいさつを交わす必要がある。一方で同質性の高い世界ではその必要がない。自分たちが所属する組織内で結束を高めるためにあいさつがあるのかもしれない。少なくとも日本という環境のあいさつは、その一面があるように思える。

現在の欧州はムスリムも増え、まさに多文化多人種社会となった。それ以前はどうか。白人社会に見えても、そこにはさまざまな国家や文化、人種が存在している。その社会の共通基盤は何か。王権と教権が覆う欧州にはキリスト教という共通基盤があった。見知らぬ人は敵になるかもしれない他者であると同時に、同じ神に所属する一員でもあったのだ。

では、キリスト教におけるあいさつとは何か。すべての人に命を与えし「主の平和」である。十字架の後、復活されたイエスは怯える弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と声を掛けられた。弟子たちは死者の復活に怯えたのではない。十字架にて裏切った弟子たちは罪意識を持っており、イエスに咎められると感じたのだ。そんな彼らの手に、釘打たれた傷の手がぬくもりを伝える。そこにあるのは彼らの人生に触れる愛である。礼拝の中で交わされる「主の平和」は、神が私の心に触れていること、それを互いに確認し誰かに伝えること。一人ひとりが大切な存在であることを実感するときにこそ「主の平和」は実現する。

「主の平和」とは、教会という組織内のみで行われるあいさつではないのだ。確かに日本において、見知らぬ他者にあいさつをするのはハードルが高く、実際に声をかけることが難しいかもしれない。だがすべての人は主によって命与えられし大切な存在なのだ。その意識を持って人々と接することが重要なのである。勤務校の各教室に掲げられた「平和をつくる者は幸いです」(マタイによる福音書5章9節)の聖句を仰ぎつつ、日々を歩んでいきたい。

與賀田光嗣(神戸国際大学付属高等学校チャプレン)
よかた・こうし 1980年北海道生まれ。関西学院大学神学部、ウイリアムス神学館卒業。2010年司祭按手。神戸聖ミカエル教会、高知聖パウロ教会、立教英国学院チャプレンを経て現職。妻と1男1女の4人家族。

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