「中立」な愛なんてありません【聖書からよもやま話602】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、ルカの福音書の11章です。よろしくどうぞ。

ルカの福音書 11章23節

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしとともに集めない者は散らしているのです。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

日本人は他の国の人たちと比べて「中立」を好むように思えます。政治か何かの世論調査をして「どちらでもない・わからない」とか「支持政党なし」と答える人がこれほど多い国も珍しいかと思います。それは宗教についても同じで日本人は多くの人が「私は無宗教です」と自認しています。神社の初詣に毎年行っている人でも、お彼岸には欠かさずお寺に行く人でも「無宗教です」と答えたりします。

キリスト教についても、「私は信じないけど否定もしないよ」というスタンスの方が多いかと思います。しかしキリストは「中立なら敵対するのと同じだよ」と厳しいことを言っています。なんて厳しいことを、なんて排他的なことを言うんだ!これだからキリスト教はダメなんだ、一神教なんてダメなんだ!・・・というような声が聞こえてきそうです。

そういった批判はいったん傍に置いて、僕はこのキリストのことばから「中立であることの厳しさ」を読み取ります。「中立」を好む多くの人は「中立とは誰の敵にもならないことである」と考えているかもしれません。しかし実は中立とは「あらゆる人の敵になること」でもあります。

永世中立国であるスイスを見るとわかりやすいかと思います。永世中立というのは、すべての国と同盟を結ぶことではなく、どこの国とも同盟を結ばないことです。どこの国の敵にもならないことではなく、どこの国の味方にもならないことです。ですからたとえば万一スイスがどこかの国に攻めて込まれてしまった場合、他の国に援軍や協力を求めることができません。故にスイスは自分たちの力だけで国を守るだけの強力な軍事力を保っています。強くなければ中立ではいられない、というのが、国際社会の現実です。

つまり、国にせよ人にせよ、中立であることには相応の覚悟が必要であるということです。

またもう一つ、中立であることは責任の放棄でもあります。政治にたとえるなら、世論調査ならともかく、いざ選挙というときに「私は中立だから」と投票しないことは、参政権の放棄であり、それは主権者としての責任の放棄でもあります。つまり政治にせよ宗教にせよ、何かについて「私は中立です」と宣言することは、「私にとってそれはどうでもいいことです」と言うに等しいことだと言えます。

こう考えるとキリストが「中立は敵対に等しい」と言っているのもある程度は理解できるかと思います。キリストを前にして中立を宣言するというのは、キリストに対して「私にとってあなたはどうでもいい存在です」と言うのと同じことですから。キリストはつまり僕たち人間に対して「これはあなた自身の問題であり、決して傍観者であってはならない」と言っているんです。

野球でもサッカーでもプロレスでも相撲でも、それを見て「評論家」になることは簡単なことです。それがお金を稼ぐ仕事になるかは別として、このSNS社会においてはなおのこと、第三者として自分の意見を述べるだけなら誰でもできます。しかし、実際にそのプレーヤーになることは非常に大変なことです。それは政治でも、どんな仕事でも同じことです。キリストは「評論家になるな。プレーヤーになれ」と言っているんです。少なくとも「評論家としてではなく、プレーヤーとして考えろ」と言っているんです。

そんなわけで僕は、何かにつけて「客観的な第三者として中立の視点で」意見を言いたがる人のことはあまり信用しません。そういう人はそういう立場である限り、決して責任を持たないからです。責任を持たない人の意見は多少の参考にはなっても、決定的な意見にはなり得ません。どんな場面であれ、誰かにとっての何者かになりたいのであればまずその居心地のいい「中立」の立場を捨てなければいけません。

誰かと友達になるには、その相手に対して中立を捨てて、その人の味方にならなければいけません。親友や恋人や伴侶になりたいのならなおさらです。妻が夫に対して、夫が妻に対して中立であるとするなら、それは健全な夫婦関係とは言えないでしょう。そして誰かの味方になるとは、その相手の敵を敵とみなすことです。少なくともその覚悟を持つということです。相手を守りたいのであれば、その相手を苛む者を敵としなければなりません。誰の敵にもならず、誰かの味方になることは不可能です。ですから本当に誰の敵にもならずに生きたいのであれば、とことんまでの孤独を覚悟しなければなりません。そこまでの覚悟をもって「私は中立です」と宣言できる人は、どれほどいるでしょうか。少なくとも僕にはできません。

誰かに寄り添うのに、誰かに優しくするのに、誰かを愛するのに、中立のままではいけません。中立を捨てる覚悟にこそ、本当の寄り添い、優しさ、愛があるんです。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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