「祈っても与えられない」にこそ愛がある【聖書からよもやま話599】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の106篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 106篇15節

そこで主は彼らにその欲するものを与え
彼らのいのちを衰えさせた。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様に願えばなんでも与えられる、と思っているクリスチャンは少なくありません。たしかに、新約聖書には「求めなさい、そうすれば与えられます」と書いてあります。僕たちは欲しいものをなんでも神様に求めていいという特権を与えられています。

しかし、そのすべてを与えられることが必ずしも僕たちの幸せに繋がるかはわかりません。「与えない」ということが神様の愛であることもあります。

子どもはお菓子を食べたがるものですが、子どもが欲しがるままにお菓子を与える親は、本当にその子のことを愛しているでしょうか。「夕飯が食べられなくなるからダメだよ」と、時にはそのお菓子を与えないことが本当の愛ではないでしょうか。

僕たちはたとえば「お金が欲しい」と願います。僕だって日々、お金が欲しいです神様、と思っています。しかしそれで本当に神様が僕に無尽蔵のお金を与えてくださったとして、それで僕は本当に幸せになるでしょうか。お金がないなーとずっと思いつつ、それでも僕は生まれてから今まで、日々の衣食住に困ったことはありません。必要な分だけは与えられています。それ以上を欲しがることは、もしかしたら子どもが「もっともっと」とお菓子をねだるのと同じことかもしれません。

「こんなに祈っているのに、どうして与えてくれないんですか神様!?」と、文句を言いたくなることや、実際に言ったことは、きっとクリスチャンなら誰にでもあることでしょう。それで「やっぱり神様なんていないんだ」とか「神様は嘘つきだ」なんて思ってしまうこともあるかもしれません。でも「与えられないこと」こそが愛だったりするわけです。むしろ欲しいものを欲しがるままに与えるようなことは、神ではなく悪魔の所業です。

ですから僕たちは「何でも求めていい」からこそ、「何を求めるか」にもっと心を割かなければいけないのかと思います。与えられないのは、求めるものをまちがっているからかもしれません。あるいは、まだその時ではないからかもしれません。1年生が6年生用の給食を欲しがっても、それは多くの場合、まだ与えられるべきではありませんし、時がくれば与えられるものです。与えられても食べきれないんですから。

僕たちは神様に対しても人に対しても「愛しているなら与えてくれ」と思ってしまいがちですが、「与えられない」という愛をもっと感じられるようになったら、もっと幸せになりやすくなるなー、と思います。

さて、今日は何を欲しがってみましょうか。神様、僕が正しいものを欲しがれるように、導きと知恵とを与えてください。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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