主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、コリント人への手紙第一の13章です。よろしくどうぞ。
コリント人への手紙 13章4〜6節
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜びます。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
今日の引用箇所は非常に有名な箇所で、ノンクリスチャンの方でも結婚式なんかで聞いたことがある方も多いかもしれません。「愛とは何か」という人類史上有数の難題にズバリと答えている箇所です。
これを読むと多くの方が「自分もこうありたいな」と思うのではないでしょうか。一方で「こんなの無理だよ。自分はやっぱり愛のない人間なんだ」なんて落ち込んでしまうことがあるかもしれません。でもちっとも落ち込むことはありません。反対に、これを読んで「よし、自分はこれにしっかり当てはまっているな、愛のある人間だな」なんて思ってしまう方がいるならその方がよっぽど問題です。
クリスチャンの中にはここに書いてあることを実践できるように努力を重ねている方もいるかもしれません。いつも寛容であろう、親切であろう、ねたまないようにしよう・・・と日々反省と精進を重ねている方もいるかもしれません。でもそんな方はまた、日々「今日の私は寛容じゃなかった」「親切じゃなかった」と、落ち込んでしまうことも多い方かもしれません。場合によっては、この条件を満たせない自分は神様の救いにふさわしくない、なんて思ってしまう方もいるかもしれません。
しかし、まずそんなことは思わなくていいんです。この箇所を読む上で肝心なことは、まずここに書かれている条件を何一つとして守れない、実践できない自分を認めることです。つまり、「寛容でなく、親切でなく、人をねたみ、自慢し、高慢になり、礼儀に反することをして、自分の利益を求めて、苛立ち、人がした悪をいつまでも覚えていて、不正を喜び、真理から顔を背ける」自分を認めることです。どうでしょう、こうして正反対のことを書き並べてみると、これって「人間の性質」だな、なんて思えませんか。人間って観察してみると誰もがこんな行動をしがちなものですし、こんな行動から完全に離れられている人なんてみたことがありません。きっと古今東西、どこにもそんな人はいないでしょう、ただ一人イエス・キリストを除いては。
愛とは正反対のことばかりをするのが、人間の隠さぬ性質なんです。つまり自分の性質なんです。僕だってもちろん、そうです。しかし、そんな人間をも愛してくれるのが神様です。「それじゃダメだぞ、愛せないぞ」なんて言わず、「それでも愛するぞ。というかむしろそれだからこそ愛してるぞ」と言ってくださるのが神様です。ですからまずは自分の隠さぬ性質を認め、それでも愛してくれている愛を受け入れること、これが肝心です。そうすれば、愛されることによって自分が少しずつ変えられていきます。少しずつ、です。いきなりいっぺんに、ではありません。そしていつか神様と対面するその日に、完全にこの条件を実践できる者へと変えられるんです。「なる」のではありません。「変えられる」のです。
ですからこの箇所の一つ一つの要素を、「できなかった」と悔やんで自己嫌悪に陥るよりも、一つできたらその度に「できた!神様できました!」と喜ぶことの方が大切なのかと思います。できなかったことを嘆くより、できたことを喜びましょう。自分の努力や心がけでなんとかなるものではないんですから。
この箇所を座右の銘にするなら、課題や目標といった「自分を律するため」のそれではなく、「できたよ!ほめて!」と喜ぶためのものにしたいなーと思います。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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