主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、士師記の21章です。よろしくどうぞ。
士師記 21章2節
そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行なっていた。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
士師記の最後を飾るこの21章はイスラエル民族の生々しい失敗、「ちょっとそれは人道的にどうかと思う」と言いたくなるような行動が羅列されています。そして最後に「それぞれが自分の目に良いと見えることを行なっていた。」と締められています。
「自分の目に良いと見えること」が本当に良いこととは限りません。それは昔も今も同じことです。人は人である限り完全ではありませんから、過ちを犯します。正義についても同じことです。正義に見えることが本当は正義じゃないということが多々起こります。
現代は日本に限らず世界中で個人主義が広がった時代です。権威から離れて、個人それぞれがそれぞれの価値観に従って生きることが是とされてきました。しかしそれは「それぞれが自分の目に良いと見えること」を行なっているということです。それがいつも悪い結果を招くとは限りませんが、少なくとも残酷で理不尽な結果を招くこともあるということはこの士師記の最後を見れば明らかです。
個人の権利は大切なものです。尊重されなければならないことに間違いはありません。しかし制限なくどこまでも認めてしまえば、社会が成立しなくなります。個人の権利と、権威によるそれへの制限は常に微妙かつ流動的なバランスによって成立しています。たとえば極端な話ですが、いくら個人の行動の自由を尊重すると言っても、人を殺してしまえば殺人罪によって裁かれなければなりません。そうでなければ秩序は崩壊し、社会は成立しなくなり、そうなれば「ポリス的動物」である人間は生きていくことができません。人間は集団でいるからこそ強いのであり、個人単位の力ではたとえば山から降りてくるクマに負けてしまいます。ですから個人が生存するためには社会が必要であり、社会を成立させるためには個人の自由に制限を加える必要があります。
ホッブズの『リヴァイアサン』という本では、社会のない人間は「万人の万人に対する闘争状態」であると想定されています。その状態の人間が、自分の生存のためにそれぞれが自分の自由の一部を共有、供託することによって社会や国家が成立すると書いてあります。
ですから個人があまりにも「自分の目に良いと見えること」を追求してしまえば、これは「万人の万人に対する闘争状態」に近づくということになりますから望ましいことではありません。とはいえ一方で、だからと言って個人の自由を大きく制限しすぎてしまえば中国や北朝鮮のような統制国家になってしまいます。そこにはもはや、神を神と宣言する自由さえありません。
この「自由」と「制限」のバランスをいかにとって来たかというのが、政治史の切り口の一つです。大きな自由と大きな制限の狭間で、人間社会は有史依頼ずっと揺れ動いているんです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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