「ルール」と「ルールのためのルール」を区別する【聖書からよもやま話576】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  新約聖書、マルコの福音書の7章です。よろしくどうぞ。

マルコの福音書 7章15節

このようにしてあなたがたは、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にしています。そして、これと同じようなことを、たくさん行っているのです。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

イエスに敵対したユダヤ人たちは建前上は「神様の言いつけを守るのだ」と言っていましたが、実際に彼らが守っていたのは彼ら自身が作り上げた「彼らの言いつけ」でした。最初はそれは神様の言いつけだったのでしょう。しかし、彼らはその神様の言いつけを土台にあまりにたくさんのルールをそこに立てあげて、元の言いつけが見えないほどまでになってしまっていたんです。つまり拡大解釈によって、本来は禁じられていないことまで「あれもだめ!これもだめ!あれもしなくてはいけない!これもしなくてはいけない!」と、ルールを複雑化させてしまっていたんです。

現代社会でもよくあることです。元々のルールはシンプルであったのに、そこに様々な忖度やら大人の事情やらがまとわりついて複雑怪奇なルールができあがってしまうような。ユダヤ人たちはそういう状態に陥ってしまい、イエスはそれを批判しました。

そして現代の教会もまた、ともすればこのユダヤ人たちと同じ過ちに陥ってしまいます。たとえば「うちの教会では礼拝を欠席したら罰金をとります」とか「礼拝と別に、週に○回以上、教会のために奉仕をしなければいけません」とか、そういったルールが登場してしまうと困ったことになります。確かに礼拝も奉仕も姫神様が定めたものであり、それを遂行するのは正しいことですが、こうなってしまうと「拡大解釈の過剰ルール」になってくるかと思います。「神様が定めたルール」と、「神様が定めたルールを実行するために人間が作ったルール」は明確に区別する必要があります。後者が必ずしも常に悪いわけではありません。教会はそれぞれ異なった事情をもっていますから、後者のルールが時として必要になることもあります。しかしそれはあくまで「人間の作ったルール」であることを忘れてはいけません。それが「神様の定めたルール」と同列に扱われてしまうと、教会は大きな過ちを犯す危険にさらされます。

日本の法律にも「ルール」と「ルールのためのルール」があります。なんなら「ルールのためのルールのためのルール」とか「ルールのためのルールのためのルールのためのルール」・・・と、恐ろしく複雑になっていたりもします。大切なのは最初の「ルール」にきちんと足場を置くことです。そうでなければルールの迷宮にハマって迷子になって暴走してしまいます。イエスに叱られたユダヤ人たちもこの迷宮にハマってしまっていたんだと思います。そしてこの迷宮は僕たちをハメたくてハメたくてうずうずしています。人間はいとも簡単にこの迷宮に迷い込んでしまいます。教会でも会社でも学校でも、ルールによって運用されている場であればどこでも、この迷宮は口を開けて待っているんです。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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