【クリスチャンな日々】第5回 「おめでとう」に飽きていませんか? MARO

主の御名をあがめます。

皆様、あけましておめでとうございます。今年も引き続きお相手させていただきます。MAROです。よろしくお願いします。

このように「おめでとう」と口にする機会の多い時期になりました。1年に口にする「おめでとう」のうち、8割くらいはもしかしてこの1月前半に集中してしまうのではないかと思います。みんなが誰かに会うたびに、誰かと話すたびに、口々に「おめでとう」と言い合う、そんな日本のお正月が僕はとても好きです。「おめでとう」って祝福の言葉ですから、人がみんなお互いに祝福し合っているわけです。しかも無条件に。良い季節です。素敵な季節です。ビバ! お正月!!

しかし、こうもたくさん「おめでとう」を言い合っていると、ついつい、せっかくのその祝福の言葉に「飽きて」しまったり「慣れて」しまったりもするものです。1月1日には心から喜んで、祝福をこめて「おめでとう」と言っていたのに、1月10日にもなると、ほとんどただの挨拶(あいさつ)として「おめでとう」と言ってしまったりしますし、言われても「あー、はいはい、おめでと、おめでと」と流してしまったりもします。「おめでとう」は同じ「おめでとう」のはずなのに、「飽き」や「慣れ」によって、その価値が下がってきてしまうんですね。もったいない。

(写真:Nullumayulife)

たとえば、お正月にはなくてはならないお餅(もち)。1月1日には「わー! お餅だー! お正月だねーー!!」と大喜びで食べたのに、1月2日はともかく、1月3日ともなると、ちょっともう飽きてきて、「普通のごはんが食べたいな」とか思ってしまいます。実はわが家では今年はお餅がたくさん余ってしまいまして、1月10日の今日でも、日々せっせと余ったお餅を消費しています。もうこうなると、すっかり飽きてしまいます。同じ「ごちそう」であるお餅を食べているのに、1月1日に味わったあの嬉しさとか、喜びとか、そういったものはもうすっかりなくなってしまっています。挙げ句には、「もうお餅なんて見たくもない」なんて思ってしまったりさえします。

すっかりお正月の話になってしまって、どこが「クリスチャンな日々」なんだ! と言われてしまいそうなので、そろそろちゃんと「クリスチャンな」お話にします。僕たちは日々、神様からの祝福をたくさん受けています。毎日の食事もそうですし、昇る太陽も、飲む水も、食べ物も、みんな神様からの祝福です。しかし、神様からの祝福を毎日受けていると、人ってその祝福に「飽きて」しまったり「慣れて」しまったりするものなんです。

出エジプト記でモーセと一緒に旅をしたイスラエル人たちは、神様から毎日、マナと呼ばれるおいしい食べ物をもらっていました。最初は「おいしい!」と喜んだ彼らでしたが、わりとすぐに「マナ飽きた。ほかのものを食べさせろ」と文句を言いました。今も昔も人間って変わらないんですね。どんなに素晴らしい祝福も、それを毎日与えられれば「慣れて」「飽きて」、そして「忘れて」、文句を言うんです。「餅なんてもう見たくもない」って言い出してしまうんです。

この連載を書かせていただいているのも、神様からいただいた祝福です。ですから1回1回、1月1日のお餅のように一期一会(いちごいちえ)、しっかり喜んで、噛みしめて書いていかねばと思います。「飽き」と「慣れ」。これが人を罪に招きます。「飽き」や「慣れ」が、「もっともっと」という「貪(むさぼ)り」を生み、「あいつはもっとおいしいものを食べている」という「嫉妬」を生みます。「いつもどおりに流しておけばいいや」という「怠惰」も生みます。そして何より、「神様に感謝できない」という罪を招いてしまうんです。

一つ一つの祝福や恵みに、しっかり感謝し、喜びつつ過ごす2020年にしたいと思います。

皆様の上にもそれぞれに豊かな祝福が与えられますように。

そして、いつもそれに対して新鮮な心で喜べますように。

それではまたいずれ。主にありて。MAROでした。

 






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