主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、出エジプト記の34章です。よろしくどうぞ。
出エジプト記 34章7節
恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。しかし、罰すべき者を必ず罰して、父の咎を子に、さらに子の子に、三代、四代に報いる者である。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様は言っています。「私は君たちをいつまでも永遠に愛して赦すけれども、でも悪い子なら本人はもちろん、子や孫、ひ孫の代まで罰しちゃうぞ」と。
あれ?先日、8月6日のこのコラムのテーマは『親の罪によって子が罪人に鳴ることはない』でした。矛盾してませんか?神様はこの前は「親の罪は子には関係ないぞ」と言っていたのに、今日は「親の罪は子や孫まで罰するぞ」と言っています。これだから聖書はやっぱり論理的に破綻しているし、信じるに値しない、やっぱり所詮は宗教だし迷信に過ぎないんだよ。・・・なんて言われてしまいそうです。
でも、よく読むと、赦しについては「赦す」と断言しているのに対し、罰については「報いる者である」と書いてあるだけで「報いる」と断言はしていません。つまりこれは「三代四代にわたって罰することができる者である」と言っているのであって「三代四代にわたって罰する」とは言っていないんです。むしろ「罰することはできるけれども、そうはしない」と読めます。ですから今日引用した箇所は「千代に渡って恵みを与えて罪を赦すけれども、しかし私がその気になれば子や孫の代までも君の罪について罰することができる者であることは忘れるなよ」という意味なのかなと思います。
人の恨みが何代も続くことは珍しくありません。悲しいことですが珍しくありません。それが今も国同士、地域同士、民族同士の紛争に結びついたりしています。人間は子や孫やひ孫の代まで恨みを引きずってしまう性質を持っています。だからこそ神様は「私だってやろうと思えば子や孫の代まで罪を引きずって罰し続けることができる。でもやらない。だって君たちを愛しているから。で、私がそれをやらないんだから、君たちも人を子や孫の代まで恨むのはやめなさいよ」と、聖書全体を通じてそういうことを言っているんじゃないかと思います。
聖書には実はこの箇所のように「矛盾じゃないの?」と思えるような部分が多々あります。でもそんな「矛盾」を感じたときこそ、理解の深まるチャンスかもしれません。聖書に書いてあることは真理であるからこそ、そう簡単にシンプルに白か黒か0か100かで割り切れるようなものではないんです。よく「真理はひとつ」なんて言れます。たしかにそうかもしれませんが、真理は多様な側面を持っています。
円柱は上から見れば円ですが、横から見れば長方形です。さらにそこに光があたれば影が三角形に見えることもありますし、光の加減によれば一つのものが二つや三つに見えたりもします。僕たちが観測したり理解したりできるのは、きっとこの「円柱の影」くらいのものなのでしょう。円だと思っていたものが長方形に見えた時、それはそこにある「円柱」に少し近づいた証拠なんです。
主にありて。
MAROでした。
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