主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ヨハネの黙示録の14章です。よろしくどうぞ。
ヨハネの黙示録 14章11節
獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者には、昼も夜も安らぎがない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「拝む」という行為は、その対象に頼る、つまり自分や自分の人生をその対象に預けるという行為です。ここに記されている「獣とその像を拝む者たち」というのは、もちろん文字通り獣を拝む人たちとも言えますが、偶像礼拝をする人たち全般と読むこともできるかと思います。偶像礼拝というのは一般的にはよく誤解されていますが、仏像などの物理的な像を拝むことだけでなく、主なる神以外のものを拝むことすべてを指します。ですから占いに頼ることも偶像礼拝ですし、お金に頼ることも、地位や名誉に頼ることも偶像礼拝にあたります。つまり、主なる神以外の何かに自分の人生を預けるのなら、それは偶像礼拝ですし、そんな人は昼も夜も安らぎがないということになります。
昼も夜も安らぎがないって、しんどいですよね。僕たちは生きていると時々そんな状況に遭遇してしまうことがあります。仕事、お金、人間関係、健康・・・さまざまな悩みに苛まれて、昼も夜も安らぐことができなくなってしまうことがあります。しかし聖書はそんな状況の原因を「頼る相手、拝む対象を間違っているからだよ」と教えています。たとえばお金。僕は余るほどのお金を持ったことがないので実体験はありませんが、お金持ちであっても常にお金の悩みに追われているというのはよく聞く話ですし、仕事だって一つの仕事が片付けば、次の仕事がやってきます。次の仕事がやってこないなら、それはそれで大きな心配の生じる状況です。人間関係だって日々刻々と変化しますから、一つを解決してもまた次の問題が生じたりします。何を自分の人生に据えるにせよ、大抵の場合は次から次へと問題が襲って来て、昼も夜も絶え間なくそれに苦しめられることになります。
しかし主なる神だけは例外で、神を人生の中心に据えるとき、この絶え間ない労苦から逃れることができるということです。
とはいえ、僕は正直なところ、まだその境地には至っていません。仕事・お金・人間関係・健康、さまざまな問題に日々直面して、それで眠れない夜を過ごすこともあります。そしてそんな悩みに悩まされれば悩まされるほど、主なる神様のことを忘れ、祈ることもおろそかになったりします。悩んでいるとき、苦しいときこそ、祈るべきであるのに、悩んでいるからこそ、苦しいからこそ、祈りを忘れてしまって、人生の中心が神様から仕事やお金や人間関係や健康に奪われてしまいがちなものです。
悩んでいるとき、苦しいとき、「祈っている場合じゃない」なんて思えてしまうときこそ、「祈りになんか頼っている場合じゃない」なんて思えてしまうときこそ、本当は最も祈りが必要なときです。悩んでいるとき、苦しいときに頼るものが、それ即ち自分が「拝む」対象です。悩んでいるとき、苦しいときにこそ、それがわかるものです。僕はまだまだ信仰の足りない者です。なぜなら悩むとき、苦しいときに、真っ先に頭に浮かぶのはお金のことや仕事のことだからです。祈るより前にそのことを考えてしまうからです。だからこそ、眠れない夜が何度も訪れてしまうのでしょうね。
苦しいときにこそ祈る。そうすれば「昼夜問わず」だった悩みが、せめて「昼だけ」になって夜は眠れるかもしれません。そして夜しっかり眠れれば、脳みその回転が良くなって昼には問題解決の道筋が見えるかもしれません。苦しいときこそ睡眠が大切。そして睡眠のために祈る。それが「主なる神を拝む」ことの一つのやり方なのかと思います。
主にありて。
MAROでした。
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