万華鏡を作るよりも鼻毛を抜こう。【聖書からよもやま話546】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  新約聖書、ヤコブの手紙の1章です。よろしくどうぞ。

ヤコブの手紙 1章23〜24節

みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです。眺めても、そこを離れると、自分がどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

現代社会の多くの人は毎日、鏡を見るかと思います。化粧をしたり、髭を剃ったり、顔を洗った後に石鹸が残っていないか確認したり、鼻毛が出ていないかを確認したり。鏡というのは自分の身だしなみを確認し、不備があれば直すために見るものです。鏡をみて鼻毛が飛び出しているのを発見しても処理をしないのであれば鏡を見ても意味がありません。

聖書のことばは神様から人間に与えられた鏡のようなものです。人をちゃんと愛せているか、悪い言葉を吐かなかったか、神様に後ろめたいことをしていないかなどなど、つまりきちんと自分が生きられているかを確認するための鏡です。ですから、もし聖書を読んで自分の罪に気づいたとしても、それを改めることがないのなら、それは鏡で飛び出した鼻毛を発見しても処理しないのと同じであるということです。

聖書を「教養として」読む方が世の中に少し増えてきています。もちろんそれだって良いことです。聖書はきっと教養としてもあなたにたくさんのものを与えてくれるはずです。しかしそれは、まだ鏡を知らない小さな子が「これはなんだ?」と鏡を観察するようなものです。その子は鏡の前で手を動かしてみたり裏に回ってみたりして「そうか、これはこういう性質のものなのだな」と認識しますが、それをどのように使うのかは知りません。ただ「なんだか不思議なものだな」と思って終わりです。

聖書をやたらと細かく研究して「聖書博士」のようになる人もいます。それだってもちろん有益なことではありますが、それを鏡として用いずに、ただただ細かく知識として読むのであれば、それは鏡を組み合わせて万華鏡を作るようなものです。万華鏡は確かに美しくて楽しいものです。僕は子どもの頃、一日中万華鏡を覗き込んで過ごしたこともありました。そのくらい熱中できる素晴らしいものですが、それは鏡の本来の使い方ではありません。万華鏡はあくまで鏡の副産物であって鏡の本来の目的からは外れたものです。クリスチャンにはこのように、せっかく神様から与えられた聖書で万華鏡を作って満足してしまう人が少なくないように思います。それはそれで素敵ではあるのですけれども、もったいないことです。

僕も日々鏡は見ますし、聖書も読みます。万華鏡づくりに没頭してしまうことなしに、きちんと日々、鼻毛を抜こうと思います。

それではまた。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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