罰金を払う人の経済状況は考慮すべきか否か【聖書からよもやま話541】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、レビ記の5章です。よろしくどうぞ。

レビ記 5章7節

しかし、もしその人に羊を買う余裕がなければ、自分が陥っていた罪の償いとして、山鳩二羽あるいは家鳩のひな二羽を主のところに持って行く。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

この章では人が「自分は罪を犯していた!」と気づいた時に「神様ごめんなさい」の印として雌の山羊か羊を生贄として捧げなさい、と書いてあるのですが、でももしそれが買えない経済状態であれば代わりに鳩でもいいよ〜、ということも書いてあります。さらにその鳩さえも買えないのなら小麦粉でもいいよ〜、とまでも、この後に続く箇所に書いてあります。

神様、優しい。罪人の経済状態に配慮してくれています。

現代日本の罰金制度で、たとえば「本当は罰金100万円だけど、お金のない人は10万円でもいいよ、それでも厳しい人は1万円でもいいよ」なんてことはあり得ませんよね。100万円の罪を犯したら、年収1億円の人でも年収10万円の人でも関係なく100万円の罰金を支払わなければならないのが現代の法の原則です。

アメリカだと現代でも罰金の「懲罰的意義」というのが考慮されたりするので、たとえば「年収1億の人が100万円払うのは痛くも痒くもないだろうから、ある程度の痛い思いをするくらいの額にしよう」ということがあり得ます。それで「コーヒーが熱すぎた」という訴訟でマクドナルド社に何十億円もの賠償が命じられたりしたこともあります。マクドナルドくらいの規模の会社にとってはそのくらいの額じゃなければ痛くも痒くもないからです。

神様も生贄という現代で言うところの罰金について、定額ではなく「その人にとってある程度痛い程度の出費」を定めているということになります。つまり日本型の罰金ではなくアメリカ型の罰金であるということです。

単純に罰金と言っても、その額の決め方には色々な考え方があるんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

【メールマガジン始めました】
クリプレのメールマガジンが始まりました。日々、クリプレの最新記事を皆様にお届けいたします。無料でご利用いただけますのでよろしければこちらのリンクからご登録くださいませ。

【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。

横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

この記事もおすすめ