主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新訳聖書、使徒の働きの25章です。よろしくどうぞ。
使徒の働き 25章19〜20節
ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。このような問題をどう取り調べたらよいか、私には見当がつかないので、彼に『エルサレムに行き、そこでこの件について裁判を受けたいか』と尋ねました。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
パウロはユダヤ人たちに「こいつはけしからん奴ですぞ」と告発され、裁判にかかることになりましたが、裁判官のフェリクスという人は特にパウロを罰する理由を見つけられませんでした。というのも、ユダヤ人たちが怒っていたのは「十字架についたイエスがまだ生きていると主張するなんて神に対する冒涜だ!ゆるせん!」という、宗教的な信条によるもので、窃盗や殺人などの具体的な行動によるものではなかったからです。フェリクスとしては「イエスが生きているか死んでいるかなんて、私には判断できませんよそんなこと」という気持ちだったわけです。
現代の日本でも似たような事例が起こっています。昭和56年の「板まんだら事件」という最高裁判例です。これはとある宗教団体がつくった「板まんだら」にご利益があるのか、それが「本物」なのか、ということが争点になりました。それが「偽物」であるならそれを「本物」と思って寄付を行った信者に対して教団は返金をすべきだろう、という訴訟でしたから、その「板まんだら」が「本物」なのか「偽物」なのかというのが、どうしても肝になります。裁判所はその判断を求められました。結果的に裁判所は「信仰の対象の価値ないし宗教上の教義にたいする判断」は裁判所にはできませんよ、その争いは教団の内部で解決してください、裁判所は法律上の紛争を解決する場であって、宗教上の紛争については関知しません!という決定を下しました。
2000年前と現代でほぼ同じ問題が裁判で話題になっているところが面白いなと思います。
昭和56年当時の裁判官が、この聖書のエピソードを知っていたかはわかりませんが、ほぼ同じ結論となっている点も面白いなと思います。特に2000年前のローマは法の秩序を大切にした国でしたし、その後の多くの方もローマ法を大いに参考にして作られたりしています。ローマ法は法体系の原型とさえ言えます。そのローマ法においても現代日本と同じ結論に至っている点において、このエピソードはローマ法の完成度の高さを示す一例といえるのかもしれません。
裁判所でも、宗教の協議の正しさは判断できないということは皆さんも覚えておいて損はないかと思います。オウム真理教や統一協会など、世を騒がせる宗教はありますが、裁判所が裁けるのは彼らが実際に行った破壊行為や詐欺行為という「行動」だけであって、その教義が正しいか否かという点には踏み込めないんです。いくら世論が「これはとんでもない教義だ!ゆるされない!」と叫んでも、日本には内心の自由や信教の自由がありますからその教義の是非については裁判所と言えども口を挟むことができないんです。もうしばらくすると、統一協会の解散命令請求についての結論が裁判所から出て、またテレビや新聞でも統一協会の話題を見聞きすることが増えると思いますが、そのときにこのことを覚えておけば、ミスリードが防げることと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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