主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、イザヤ書の53章です。よろしくどうぞ。
イザヤ書 53章3節
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
イエス・キリストという人を、これまで多くの映画や舞台で、多くの役者さんたちが演じてきましたが、だいたいその役者さんというのは、いわゆる「イケメン」です。そして多くの絵画に描かれているイエス・キリストもまた「イケメン」に描かれていることがほとんどです。しかし聖書にはイエス・キリストがイケメンだなんて、一言も書いてありません。むしろこのイザヤ書の53章はそのルックスについて「輝きも見栄えもない」と記しています。
僕たちはつい過去の人物、特に尊敬する人物を美化してしまいます。大河ドラマでも歴史上の偉人はおそらく実物よりも見栄えのする役者さんが演じています。坂本龍馬の実物はおそらく福山雅治さんよりも美しくはなかったでしょうし、明智光秀の実物はおそらく長谷川博己さんより美しくはなかったでしょう。イエス・キリストもまたその例に漏れず、後世のイメージによって美化されたんです。
近頃は「ルッキズム」が社会的な話題になっています。人を外見の美しさで評価するのをやめよう、という潮流ですけれど、しかし、人間というのはやはり醜いものよりも美しいものに親しみを抱くものです。もちろん、それだけで人間の価値を判断してしまうのは明らかな間違いではありますけれど、「美しさ」というのも、「賢さ」や「優しさ」と同じように、その人の特質の一つとして承認されるべきものかと思います。そして「美しさ」を求められるときには、それを持っている人がそれを用いることも、否定されるべきことではないと思います。それは知恵が求められるときに賢い人が、おいしい食事が求められるときに料理上手な人が活躍するのと同じことかと思います。
ただ、イエス・キリストという人(あえて「人」とここでは言いますけれど)を観察・考察するときには、その「美しさ」というのは除外すべきかと思います。だって聖書に明らかに、イエス・キリストはその特質を持っていなかったと書いてあるのですから。勝手に美化して特質を加えては、人を見誤ります。ということは、イエス・キリストという人は、多くの人を導くために「美しさ」を必要としなかったということです。それ以外の特質をもって、多くの人を導いたんです。
大きなことを成し遂げるのに、「美しさ」は一つの利点にはなるかもしれませんが、それは必ずしも必要なものではありません。それは他の特質にも言えることです。「賢さ」も「優しさ」も「強さ」も「料理のうまさ」も、どれもきっとないよりはあった方が、何かを成し遂げるには利点になるでしょうけれど、どれも「これがなくてはいけない」という決定的なものではありません。大切なのは神様から自分に与えられている特質・ツールをしっかりと認識し、それを最大限に生かすことなのかと思います。
「自分は顔が悪いからダメだ」「自分は頭が悪いからダメだ」「自分は体が弱いからダメだ」なんて、どれも思うことはありませんし、むしろ思ってはいけません。人はついつい自分にないものを数えてしまいますが、自分に与えられているものを数えることの方がはるかに重要です。「料理上手」でも「掃除上手」でも「買い物上手」でも「笑わせ上手」でも「ファミコンが上手」でも「寝つきが早い」でも「大食い」でもなんでも、他に劣る特質ではありません。同じように「顔がいい」とか「スタイルがいい」だって、与えられているなら大切にして用いるべき特性です。まずは自分に与えられている良い特質を棚卸して、整理して、使いやすくすることが、人生において何かをやる上で大切なことなのかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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