主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ヨブ記の41章です。よろしくどうぞ。
ヨブ記 41章11節
だれが、まずわたしに与えたというのか。
わたしがそれに報いなければならないほどに。
天の下にあるものはみな、わたしのものだ。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
クリスチャンはいわゆるお供物をしません。神様に何かを「さしあげて」、代わりに何かを求めるということはしません。神様は人間の力や人間が備える食べ物なんてなくても生きられる方です。人間から食べ物を貰わなくては生きていけない神様なんて神様ではありません。それでは人間が神様を飼っているのと同じです。人間が主で神様が従になってしまいます。人間が人間の手で神様を生かしているのだとしたら、神様よりも人間の方がえらいということになります。
そんなこと言っても、クリスチャンだって献金はするじゃないか。と反論する方もいるかもしれません。たしかにそうです。教会の運営にはお金が必要です。牧師がごはんを食べるためにもお金が必要です。ですから献金をして教会や牧師を支えるのはクリスチャンとして大切なことです。しかし、もし献金を誰もしなくても、教会はなくなってしまうかもしれませんが、神様自身がいなくなってしまうことはありません。献金の有無や多寡によって神様の存在が変わることはありません。お金が必要なのは教会であって神様ではないんです。神様はたしかに聖書で献金をするように命じていますが、それは教会を支えるためであって神様自身のためではありません。そこを混同してしまうと困ったことになります。
そもそも献金というのは「人間のものを神様にさしあげる」のではなく、「もともと神様のものであるものを、神様にお返しする」ものです。今日引用した箇所に書いてあるように、この世のものはすべて神様のものだからです。ですから誰も神様に対して「私はこんなに献金したんですよ!」と誇ることはできないんです。まして「これだけ献金したんですから私の願いを叶えてください」とは言えないんです。ましてまして神様の側から「これを叶えたかったらこれだけ献金しろ!」なんて要求することはないんです。
「献金しないとひどいことが起こるぞ!」とか「献金したらいいことが起こりますよ」なんてことを言う教会がもしあったら、いや残念なことに実際にあるのですけれど、それは間違いなく教会の名を借りたカルトです。神様が何かをなさるのにどうしてお金が必要でしょう。何かをするのにお金が必要なのは人間だけです。教会というのは人間の集まりですからその運営にはお金が必要ですが、神様自身はお金を必要としません。食べ物さえ必要とはしません。
ですから、何かと引き換えに献金を求めるのなら、その主体は神様ではなく人間です。いくら神様の名を用いていても、それは人間の業でしかありません。カルトが行うのは所詮人間の業あり、決して神様の業ではないんです。
献金や供物で神様を自分の思い通りに動かそうとしてませんか。それは神様に対する冒涜です。もしそれが仏様であってもおそらく同じかと思います。人間の力で、人間のお金で動く神様仏様なら、大した神様仏様じゃありませんから従う必要も信じる価値もありません。
僕は人間だからお金は欲しいです。とても欲しいです。でもだからこそ、お金をくれる相手には逆らえなくなります。いや実際はときどき逆らってしまうからこのようにお金がないのかもしれませんけれど、非常に逆らいにくくなるのはたしかです。お金ってそういう性質があるんです。相手を逆らえなくするパワーがあるんです。でもそのパワーが通用するのは人間相手のときだけです。神様が相手ではそんなパワーはなんの役にも立ちません。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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