主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、ヘブル人への手紙の4章です。よろしくどうぞ。
ヘブル人への手紙 4章7節
神は再び、ある日を「今日」と定め、長い年月の後、前に言われたのと同じように、ダビデを通して、
「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」と語られたのです。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
僕たちは誰も「今日」をしか生きることはできません。「昨日」を生きることも「明日」を生きることもできません。神様は人間に「罪を犯してはいけないよ」と言いますが、それは常に「今日」です。
「昨日」の罪の問題は、現代社会において大きな問題や話題になっています。人々は以前よりも有名人や政治家の「昨日の罪」に敏感になりました。「こいつは10年前にこんなことをした奴だぞ」「この人は20年前にこんな失言をしたんですよ」と、「昨日の罪」によって、お互いを裁き合うような世の中になりました。しかし聖書のメッセージは「昨日の罪はもうゆるすから、今日、罪を犯してはいけないよ」と僕たちに教えています。2000年前からずっとそうです。
もちろん誰かの「昨日の罪」をゆるせないことは、人間同士においてはあります。僕にだってあります。それだって無理のないことです。人間はそう簡単に「過去のことはみんな水に流すよ」なんて言えないものです。言えたとしても実際は心に何らかのわだかまりが残ったりもするものです。「昨日の罪」を消し去ることはできない、これが人間の限界です。罪を消しに過去に行くことなんて僕たちにはできないんですから。
一方で「未来の罪」は僕たちにはどうしようもありません。だって未来は文字通り「未だ来ていない」んですから。まだ犯していない罪について先に謝ることなんてできません。罪を防ぐことはできそうな気もしますが、それだって人間には非常に難しいことです。「よし明日から心を入れ替えてがんばるぞ」と思いながら、翌日になったらやっぱり頑張れなかった、なんて経験は誰にでもあるのではないでしょうか。僕たちは「明日〜〜をする」と本当に約束することはできないんです。「明日必ずそこに行く」という約束をしたとして、明日になったら灸な病気や怪我で行けなくなるかもしれません。電車が止まるかもしれません。身内に不幸があるかもしれません。そう考えれば、僕たちは厳密な意味では何ひとつ約束なんてできません。指先ひとつ動かすことさえ、約束できません。だって明日に自分が生きていることすら、確かではないんですから。
昨日のごはんを今日食べなおすことはできませんし、
明日のごはんを今日のうちに食べておくこともできません。
今日食べられるのは今日のごはんだけです。
神様は人間がこんな風に「昨日」に対しても「明日」に対しても無力であることを知っています。だから「今日どうするんだ」を常に問い続けるんです。大切なのは「昨日罪を犯さなかった」ことでも「明日罪を犯さない」ことでもなく、今日、今、この瞬間に罪を犯しているかいないか、ということなんです。
ですから「昨日までできなかったから、明日からもできないだろう」なんて落ち込む必要はないんです。この意味では昨日も明日も、今日には関係ないんです。「昨日までずっと無神論者として生きてきたんだから、今さら神様を信じることはできない」なんてことはないんです。反対に「今日までクリスチャンとして生きてきたから、明日もクリスチャンだ」なんてこともないんです。大切なこと、問われているただひとつのことは「今、信じるかどうか」だけです。
「昨日」を思えば取り返しがつかない絶望があり、
「明日」を思えば気が遠くなる絶望があります。
「今日」だけはしかし、そこに絶望はないんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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