主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第二の20章です。よろしくどうぞ。
サムエル記第二 20章5節
アマサは、ユダの人々を招集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
王になったダビデ王にも苦難が続きました。まずアブサロムが反乱を起こし、それを鎮圧したら今度はシェバが反乱を起こしました。次から次へと部下が裏切って反乱を起こし、ダビデもきっと誰を信じていいのか分からなくなったことでしょう。
アブサロムの反乱のときにアブサロムと一緒にダビデに反旗を翻したアマサという人がいました。ダビデは彼をゆるし、司令官に取り立てました。それでシェバが反乱を起こしたときにダビデはアマサに「兵隊を集めてきてくれる?」と命じました。
アマサはダビデにはゆるされても、きっと民にはゆるされてなかったのでしょう。そしてきっと神様にもゆるされていなかったのでしょう。彼の下には思うように兵隊が集まらず、ダビデが指定した期限までに彼は目標を達成することができませんでした。
そしてもう一人、アマサをゆるしていない人がいました。ヨアブという将軍です。ヨアブはずっとダビデに将軍として付き従っていたのに、アマサに司令官の地位を奪われてしまっていたのでした。ヨアブは味方を気遣うふりをしてアマサに近づき、油断したところで剣を突き刺して殺してしまいました。
アマサはヨアブが自分をゆるしていないなんて思っていなかったんです。そして民が自分をゆるしていないとも思っていなかったんです。ダビデ王がゆるしてくれた、それだけですべてゆるされたと勘違いしていたんです。
現代社会でもよく起こることです。トップ同士で謝罪したからもういいだろう、社長に謝罪したからもういいだろう、と、誰か一人の「偉い人」にゆるされただけで、他の人にもゆるされたと勘違いしてしまう人は現代にもいますし、僕自身もどこかそんなところがあるかもしれません。相手がどんなに偉い人であろうとも、それが人間である限り、そのゆるしはその人ひとりのゆるしでしかありません。
有名人が不倫をしたとき、たしかに部外者であるテレビ視聴者に謝罪する必要はないように思います。しかし、「妻に謝罪したからもういいでしょ」というのは危険かと思います。その人は子どもたちには謝罪したでしょうか。不倫相手の家族には謝罪したでしょうか。その不倫によって振り回された人たちには謝罪したでしょうか。
人は自分で気づかないところで、意識していないところで罪を犯しているものです。そして自分勝手に「ゆるされた!」と安心していても、実はゆるされていなかったりもするものです。人が人をゆるすことの難しさを思い知らされます。
そして「ゆるされる」ことの難しさを何より痛感します。人がゆるされることは簡単なことではありません。でもだからこそ、すべてを「ゆるす」ためにイエス・キリストがいるんです。
アマサはダビデには謝ったのでしょう。しかし神様には謝っていません。何か罪を犯してしまったとき、まず真っ先に謝るべきは神様なのかと思います。それが心から自分の罪を認めるということだからです。まずしっかりと神様の前で自分の罪を認め、その上で被害者や関係者への謝罪に向かう。そういう姿勢が大切なのかと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
【メールマガジン始めました】
クリプレのメールマガジンが始まりました。日々、クリプレの最新記事を皆様にお届けいたします。無料でご利用いただけますのでよろしければこちらのリンクからご登録くださいませ。
【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。