主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の22章です。よろしくどうぞ。
エレミヤ書 22章10節
死んだ者のために泣くな。
その者のために嘆くな。
去って行く者のために、大いに泣け。
彼が再び帰って、
故郷を見ることがないからだ。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
『どうする家康』で、石川数正は家康の下から出奔して、豊臣方に加わりました。彼は「去った者」となりました。聖書は、最後まで忠義を尽くして死んだ者よりも、こうした「去った者」のために大いに泣けと語っています。
家康さんのために最後まで戦って命を落としたり、志半ばで病に倒れて亡くなったりした人たちについては、もちろん寂しくて悲しいですが、しかし彼らはきっと故郷やゆかりの地で葬られ、弔われ、最後まで「仲間」として扱われるでしょう。しかし石川数正さんはいかがでしょう。彼は故郷で葬られることもなく、「仲間」としても扱われなくなりました。ドラマではそれなりに幸せな晩年を過ごしたように描かれていましたが、実際はどうだったのでしょう。出奔した数正さんは、少なくとも二度と故郷の三河や駿河を見ることはなかったでしょう。どちらの方が幸せでしょうか。
死とはいわば「体の別れ」、しかし去っていかれてしまうのは「心の別れ」です。「体の別れ」ももちろん悲しいですが、人間にとってより悲しむべきは「心の別れ」なんです。
愛する人が亡くなってしまうことはもちろん悲しい。とても悲しい。この上もなく悲しいことです。でも、愛しているまま、愛されているまま、つまり心が別れないままに亡くなったのなら、それは「体の別れ」に過ぎません。死は一見、「最も絶望的な別れ」にも思えますが、実はそうではないんです。それよりも心が別れてしまう方が、ずっと「絶望的な別れ」なんです。死んでしまった人にはいずれ会えます。そしてその時には抱き合って喜び合えるでしょう。でも心が別れてしまった人には二度と会えません。一緒に喜ぶこともできません。
主イエスの贖いと復活によって、僕たちもまたいつか復活するものとされました。だからこの体が死んで消えたとしても、僕たちはまた会えます。また喜べます。また愛し合えます。主の十字架によって、このように死の絶望から、僕たちは解放されたんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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