主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、 マルコの福音書の15章です。よろしくどうぞ。
マルコの福音書 15章34節
そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
それなりの長さをクリスチャンとして生きていると、きっと何度かは「神様は自分を見放したのではないか」「こんな罪を犯してしまって、今度こそ神様は自分を見放したのではないか」なんてことを感じたことのある方は少なくないはずです。正直なところ、僕はたぶん人一倍そんなことを感じます。何度も何度も感じました。そして何度も何度も「いや、神様は僕を見放していない。見捨てていない」と信仰を新たにし、しかしそれでもまた何度も何度も「やっぱり今度こそ見放されたのではないか」と思ってしまう不信仰な者です。神様は何度も何度も、「私は君を見捨てていないぞ。今後も決して見捨てることはないぞ」と恵みと祝福をくださっているのに、それでも何度も何度もなんです。自らの不信仰さを痛感します。
しかし、このシーンでのイエス様を見る、つまり「十字架のイエス」を見上げるとき、そんな自分の不信仰に、一つの慰めが与えられます。それは「イエス様でさえ、自分が見放されたと感じて、嘆いたのだ」ということです。完全に罪のないイエス様でさえ、そういう気持ちを抱くなら、日々罪を犯さずに生きることのできないこの僕がそんな気持ちを抱くのは当然のことであるし、むしろ抱かないならその方が傲慢ではないか。自分の不信仰から目を背けていないだけ、むしろいいのではないか。そんな慰めを与えられるんです。
イエス様はこの「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」の後、十字架をまっとうし、復活して天に昇られました。この祈り、この神への叫びは重要なターニングポイントなのではないかと思います。人生の苦難のとき、どん底から天の神様に叫ぶとき、それはイエス様ではない、罪深い僕たちにとっても祝福を受け、神様によって変えられるターニングポイントになるのではないでしょうか。この叫びこそが人の罪によって十字架につけられ、どん底に追いやられたイエス様が、神様の力によってその罪を超越する、「反撃開始」の号砲だったのではないでしょうか。
ノンクリスチャンの方だって、人生のどん底のような時「この世に神なんていない」とか「神は私を見捨てたんだ」とか思うことがあるのではないでしょうか。思うだけでなく叫ぶことだってあるのではないでしょうか。そのときです、そのときこそがターニングポイントです。神様が最も大きな恵みと祝福をくださるのはそのときです。そこから人間は神様の力によって、変えられるんです。
イエス様でさえ、「神よ私を見捨てるのか!」と叫んだ。このことを知っているだけでどん底の暗闇に、一筋の光がさすんです。ですから「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」この嘆きを、叫びを、これだけでも覚えておいて欲しいと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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