主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 新約聖書、 ペテロの手紙第一の1章です。よろしくどうぞ。
ペテロの手紙第一 1章15節
あなたがたを召された聖なる方に倣い、あなた方自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「生活のすべてにおいて聖なる者」・・・無理。どう考えても無理。あぁごめんなさい神様。やっぱり僕はクリスチャンとしてふさわしくないんだ。僕なんかもう教会からも聖書からも離れるべきなんだ。
・・・なんて思ってしまいたくもなります。でもそんなことは思わなくていいんです。だって小学校に入学する一年生が「分数とか鶴亀算とか無理。どう考えても無理。あぁごめんなさい先生。やっぱり僕は小学生としてふさわしくないんだ。僕なんかもう学校からも教科書からも離れるべきなんだ」なんて思いませんよね。
1年生が最初から小学校で学ぶすべてのことをマスターしているのなら、学校に行く必要なんてありません。同じように僕たちが完全にイエス・キリストと同じように完全に聖なるものであるならば、教会も聖書も必要ありません。なんならイエス・キリストの救い自体が必要ありません。先生が必要なのは、その先生が教えてくれることを知らない人のためです。
僕たちクリスチャンは、教会という「学校」に入学し、イエス・キリストという「先生」から学ぶことを許された学生のようなものです。ですからこの手紙のこの箇所に書いてあることは「先生からたくさん学んで、いつか先生のような人になりましょうね。」ということであり、同時に「先生がちゃんと教えるから、心配しなくともみんなちゃんと勉強ができるようになりますよ。」ということでもあるんです。それはこの少し前の9節に「あなた方が、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」と書いてあるところから読み取れます。「救いを得るために」とか「得ましょう」ではなく、すでに「得ている」と書いてあるんです。
これは入学したての一年生が、「6年後には卒業するんだ」ということを確信しているのに似ています。入学したての一年生が「6年後に卒業できるだろうか」なんて心配しているのを見たことがありません。中学一年生、高校一年生、まして大学一年生ならそんな心配もだんだん出てくるのでしょうが。この点「子どものようでなければ神の国には入れない」ということなんでしょうね。クリスチャンには、もちろん「聖なる者」を目指して心身を整えることも大切ですけれども、それよりずっと大切なのは「いずれ自分も聖なる者とされるのだ」と確信し続けることです。そうすれば自ずと少しずつでも己の心身を整えることができてくるように思います。
・・・とはいえ、僕の学びはあまりに遅い。「聖なる者」にはほど遠い。あまりに遠い。僕は本当に「聖なる者」になれるのだろうか。いえ、そんな風に思ってしまうときこそ、子どものような「卒業の確信」と「先生への信頼」が必要なんです。イエス・キリストから学ぶことを許されたという、そのことだけでとんでもないほどの特権なんです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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