主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の17篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 17篇1節
主よ 聞いてください 正しい訴えを。
耳に留めてください 私の叫びを。
耳に入れてください 私の祈りを。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ダビデが祈っています。「ダビデの祈り」というと、つい僕たちはそれを祈りの模範のように思ってしまったりしますが、果たして本当にそうでしょうか。祈りにおいて「私のこの祈りを聞いてください」という姿勢は決して間違ったものではありません。しかしこの「正しい訴えを」というのはどうでしょう。ダビデは「私の訴えは正しいのだから聞いてください」と神様に言っています。この姿勢は果たして本当に模範的と言えるでしょうか。
人間同士の会話であっても「俺は正しい!」「私は正しい!」という態度はあまり好まれるものではありません。まして「俺の言うことは正しいんだから、君はこれを聞くべきだ」なんて態度は傲慢でしかありません。ダビデはその態度を神様に向けてとってしまっています。しかも祈りの冒頭にです。「神様、私は正しいんです。だから私の声を聞いてください、聞くべきです」と言っています。これには神様も苦笑いだったのじゃないかと思います。
とはいえ、これが人間の隠さぬ祈りの姿かと思います。ですからこの祈りが詩篇にこうして記され、長年にわたって多くの人に読まれ、愛されています。人間は 自分を正しいと思ってしまう、思いたがってしまう存在です。そういう存在であることまで含めて、ダビデは正直に神様にさらけ出しています。だからこの祈りはリアルなんです。読む人の心にリアルに迫ってくるんです。祈りというのはときに心の叫びであり、呻きでもあります。必ずしも美しいもの、正しいものとは限りません。己の醜さや過ちまでみんなひっくるめて、神様にぶつけるからこそ祈りは本当に祈りになるのであって、自分を美しく偽って、美しい言葉で飾り立てて、建前を並べ立てて、体裁を整えて・・・というのは本当の祈りとは言えません。
この点で、ダビデのこの祈りは模範的であると思います。模範的でないことこそが、模範であるという一種のパラドックスですが、神様の前で「自分は正しい」と主張してしまう傲慢、その醜さを隠さずに神様にぶつけるその姿勢、これは僕たちが自分の祈りについて反省すべき点を教えてくれるものだと思います。神様の前で自分を「美しく」繕っていないか、隠し事をしていないか、心のままをぶつけているか。「これは神様に伝えない方がいいな」なんて、神様に対して妙な忖度をしていないかどうか。隠し事も忖度も、神様はすべてお見通しな方です。何を隠しても隠し切れるわけがないんですから、ぜんぶ素直にぶつけてしまった方がいいんです。
醜さにこそ、祈りの本質があるのかもしれない、なんて思わされました。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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