信仰を守るのには、知恵も人格も役に立たない【聖書からよもやま話348】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、列王記第一の4章です。よろしくどうぞ。

列王記第一 4章29節

神は、ソロモンに非常に豊かな知恵と英知と、海辺の砂浜のように広い心を与えられた。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ソロモンは誰よりも豊かな知恵を与えられ、しかも心も広い王でした。非の打ちどころのない人物でした。しかしその晩年には、その知恵と心を与えてくれた神様をないがしろにして異教の神々を祀り、神様の怒りを買って祝福も奪われてしまいました。

どんなに知恵があっても、どれほど人格が優れていても、信仰を保つことはできないということです。「信仰から離れてしまうなんて、あの人はバカだ」とか「信仰から離れてしまうなんてあの人は人間ができていない」なんて、そんなことは言えないということです。信仰というのは知恵でも人格でも保つことができないものなんです。

これほど賢く明君だったソロモンも信仰を忘れた晩年は暴君と化し、自らの贅沢で国の財政を悪化させ、結果として国の分裂を招いてしまいました。とても知恵ある行動とは言えません。ソロモンは信仰と祈りによって知恵を与えられましたが、信仰と祈りを忘れてしまった時、その知恵さえも奪われてしまったんです。祈りによって知恵は与えられるけれど、知恵によって祈りを保つことはできません。
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どれほどの神学書を読んで神様についての知識を蓄えても、どれほど行動に気をつけてあらゆる人に優しく親切に接したとしても、それは信仰を保つには関係のないことです。つまり信仰とは、自分の力で保つことはできず、神様の恩寵と、それを求める祈りによってのみ保たれるということです。

信仰というのは賢い人や優しい人に与えられるものではありません。勉強すれば知恵はつきますし、身を律すれば優しくもなれます。しかし信仰はそういう「人間の努力や能力」で得られるものでも保たれるものでもありません。しかし反対に信仰が先にあれば努力も能力も、必要なものは必要なだけ与えられます。必要のないものは与えられないかもしれませんが。ですから学ぶにも何するにも、まずは祈りを先に置くことが大切なのかと思います。

とか言いつつ、昨夜の僕はあまりに疲れて祈る前に寝てしまいました。いわゆる寝落ちです。弱い僕には祈ること自体にも「祈らせてください」という祈りが必要です。そしてできればほんの少しでも、皆様の「MAROを祈らせてください」という祈りをいただければとてもありがたいです。よろしくお願いします。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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