神様が本当に欲しいもの【聖書からよもやま話315】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、サムエル記第二の7章です。よろしくどうぞ。

サムエル記第二 7章5節

主はこう言われる。あなたがわたしのために、わたしの住む家を建てようというのか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様に感謝の念を強く抱いたダビデ王は「私が立派な家に住んでいるのに、神様の家が立派じゃないのは良くない!よし、神様のために立派な家を建てよう!」と思い立ちました。しかし神様は「え、私それいらない。今までずっと天幕に住んでいたし、それが居心地いいし。そもそも私、一度も家が欲しいなんて言ってないよね?欲しかったら言うし。」と、それを断りました。

現代の僕たちもこのダビデと同じようなことをしてしまっているかもしれません。「神様、感謝の印としてこれを捧げます!」と何かを捧げることがあるかもしれませんが、それは本当に神様が望んでいるものでしょうか。神様が明確に望んでいるものは、礼拝と祈りと、教会への献金です。その献金だって「収入の十分の一」と明確に聖書に記されているのであって、それ以上のものは神様は望んでいません。「私の全財産を捧げます!」とこちらが言っても、神様がそれを望んでいるとは限らないわけです。神様は何かが欲しいなら欲しいと言う方です。言ってもいないもの、欲しくもないものを「さぁどうぞー!」と言われても「いやいや、私にはそんなの要りません」です。僕たちだってたとえば「食事が欲しい」と思う時、必要なのは一人前の食事であって、「どうぞー!」と三人前、十人前、百人前の食事を出されたら困ってしまいますし、「食事よりも価値のあるこれをどうぞ!」と宝石を貰ってもお腹はいっぱいになりません。
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どこかのカルト教団のように、「献金は多ければ多いほど良いのです!皆さん、どんどん大金を捧げましょう!」なんて言うのは、神様からすれば「いやいや、そんなこと私はちっとも言ってないでしょ」という話かと思います。この「収入の十分の一」以上の献金を求める「教会」があったら、そこからは逃げた方がいいかもしれません。神様が求めているのは「十分の一」であって、それ以上ではありません。それ以上を求める「教会」は神様の求める以上に集めて、そのお金をどうしようというのでしょう。まぁ、それは問わずとも見えることかと思いますが。

しかしその一方で僕たちもまた、つい勝手なものを神様にささげてはいないでしょうか。しかも、神様が明確に欲しいと言っている礼拝や祈りや献金を後回しにして、勝手に「神様はこれを喜ぶに違いない!」と的外れなものを捧げようとはしていないでしょうか。ダビデのこのエピソードを読むたびに、自戒をこめてそんなことを思うんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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