主の御名をあがめます。
MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、使徒の働きの9章です。よろしくどうぞ。
使徒の働き 9章21節
これを聞いた人々はみな驚いて言った。「この人はエルサレムで、この名を呼ぶ人たちを滅ぼした者ではないか。ここへやってきたのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではなかったか。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
パウロはキリスト教迫害にとことんまで力を注いだ人でした。クリスチャンたちは彼を非常に恐れました。しかしそんなパウロがある日突然、イエス様と出会って回心し、生き方を180度変えて、誰よりも熱心なキリスト教の伝道師になりました。彼がキリストの福音を語るのを聞いて、周りの人々はみんな「ウソでしょ!?あいつはとことんまでクリスチャンを迫害していた奴なのに!?」と驚きました。
実は実社会でもこんなことはよくあるものです。現代のクリスチャンでも、実はもともとキリスト教が大嫌いだった、という方も少なくありません。実は僕自身もそんな経歴があります。僕はキリスト教が大嫌いな家に育ち、大学ではニーチェの「神は死んだ」の思想に没頭し、バンドではあろうことかイエス様に対して「どこにいるんだ、いるなら出てきやがれ!」と挑発するような歌を作ったりしていました。今通っている上馬キリスト教会にも「教会なんかが近所にあることが気に食わない。いつか石を投げ込んでやろうか」と思っていたほどでした。
しかし今ではこのように日々イエス様の福音について筆をとっています。昔の僕を知る人たちからは「まさかお前が・・・」と驚かれます。
僕が福音を信じるようになったのは、僕が一番キリスト教を憎み、否定していたころでした。「どうしたらキリスト教なんてものをこの世からなくせるのか。いつか必ずなくしてやる」なんて思っていた時に、ある日突然考えが180度変わる、回心の経験をしました。パウロもまた、最もキリスト教迫害に力を注いでいる最中に、イエス様と出会いました。
強く憎んでいるということは、それを強く意識しているということです。神様を憎むと言うこと、その憎しみを行動に表すということは、もしかしたら実は一種の「神様を求める行為」なのではないかと思います。今思えば、僕が「ジーザスとやら、いるなら出てきやがれ!」という歌を作ったのも心のどこかで「いて欲しい、出てきて欲しい」と思っていたからなのかと思います。神様に対する憎しみの叫びは、時として何よりも神様を求める叫びなのかもしれません。
可愛さあまって憎さ100倍、なんて言葉がありますが、こと福音に関しては、憎さあまって可愛さ100倍なんてことも起こるのだなー、と思わされます。それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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