皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、申命記の7章です。それではよろしくどうぞ。
◆申命記 7章25節
あなたがたは彼らの神々の彫像を火で焼かなければならない。それにかぶせた銀や金を欲しがってはならない。また自分のものとしてはならない。あなたが罠に陥らないようにするためである。
この箇所ではイスラエルの民に対して神様が「敵の民族を徹底的にやっつけろ!」と命じているので、かなり物騒なこともたくさん書いてあります。こういう箇所を読んで「クリスチャンは好戦的だ!」と誤解されてしまうことも少なくありません。こんな誤解を招くようなこと、そもそも聖書に書き残さなければよかったのに神様、なんて思ったりもします。しかし、こういったことももちろん、必要だから書いてあるわけです。聖書は人間に耳障りの良いことばかりが記されている本ではないんです。
現代日本に暮らしていれば「敵の民族と戦って滅ぼす」なんてことは現実的ではありません。(この感覚を「平和ボケ」と言う方もいらっしゃるかもしれませんが)では、現代日本に暮らしている僕たちにはこの箇所から学べることはないのでしょうか。「聖書が聖書である限りそんなことはありえない」そう思いながら読んでいたら、ヒントとして与えられたのが、この25節です。
敵の神々の像をすべて焼け、とここでは命じられていますが、きっとイスラエルの民たちの中には「像を焼くには焼くけど、金とか銀とか、金目のものだけはとっておこう」と考える人がいたのでしょう。だから神様は「銀や金を欲しがってはならない」とわざわざ命じたんです。
僕たちは日常生活で像を焼くことはまずありませんが、何かの決断をする時、もしかして「銀や金を欲しがって」はいないでしょうか。たとえばお酒をやめると決めたのに「でも適度なら健康に良いから少しだけ飲もう」とか、不誠実な取引先との取引をやめたのに「でもこの部分はおいしい取引だからこの部分だけ残しておこう」とか、恋人と別れたのに「でも悪者になるのは嫌だから友達としての付き合いは残しておこう」とか、そういうことをしてしまうことは往々にしてあるのではないでしょうか。何かを切り捨てる決断をしながら、自分にとって都合の良い部分だけは残しておこうなんて思ってしまうことがあるのではないでしょうか。また、反対に何かをすると決めたのに、自分に都合の悪い部分だけは見ないふりをするようなことがあるのではないでしょうか。もしかしたら「聖書を信じる」と決めたのに、こういう「耳の痛い」箇所は読み飛ばしてしまう、ということもそうかもしれません。それが「罠」になると聖書には書かれています。
ダイエットを始めたのに「1日1つだけ甘いものを食べて良いことにしよう」という、その「1つ」が罠になってたくさん食べてしまってそれまでの努力が台なし、なんていう経験をしたことがある方も多いかと思います。麻雀をやっていれば「この役は捨てよう」と決めたのに「でもこの牌は持っていたら後でいいことあるかも」なんて決断を鈍らせたために負けてしまうこともあります。その少しの心残りである「銀や金」、あえてすごく俗っぽい言い方をすれば「スケベ心」が、せっかくの決意を台なしにしてしまう「罠」になるんです。
この箇所から学べることの一つは、「決めたからには徹底せねばならない時がある」ということです。それは必ずしも常にではないかもしれません。しかし、徹底的な決断を求められることも、人生には必ずあるんです。
心を鬼にして、徹底的な決断をしなければならない時。思い返せば僕の人生にも何度かあったのだと思います。その徹底的な決断ができずに、中途半端にしてしまったために、かえって人や自分を傷つけてしまったこともあるように思います。心を鬼にするのはとても辛いことですし難しくもありますが、それが必要なときはちゃんとそうできるように、祈りたいと思います。
それではまた。
主にありて。MAROでした。