皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から心に浮かんだ事柄を、皆様の役に立つ立たないは気にせずに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、民数記の34章です。それではよろしくどうぞ。
◆民数記 34章13節
モーセはイスラエルの子らに命じて言った。「これが、あなたがたがくじを引いて相続地とする地である。・・・」
モーセを指導者とするエジプト脱出の40年の旅も終わりに近づいてきました。神様はモーセに率いられたイスラエル12部族に、それぞれ「安住の地」として土地を与えましたが、どの部族がどの土地をもらうのかは、なんと「くじびきで決めろ」と言ったんです。
ええ・・・そんな大事なことをくじびきで決めるなんて!ちゃんと話し合うべきだ!って思う方も多いと思います。
でも、どうして神様はこんな大切なことをくじびきで決めろなんて言ったんだろう?と、つらつら考えてみますと、「決断」ということについて、ちょっと違う切り口も見えてきます。人間の話し合いって、果たして万能でしょうか。話し合いで決めることは、果たして本当に常に公平であると言えるでしょうか。
おそらく、くじびきの対象になった土地には「人気のある土地」と「人気のない土地」があったことでしょう。それを話し合いで決めようとなったら、みんな「人気のある土地」を欲しがって、そこで互いに譲らずに争いが生じてしまうかもしれません。仮になんらかの決着をつけられたとしても、「人気のない土地」を結果的にあてがわれてしまった人は、「人気のある土地」をゲットした人を恨むかもしれません。そもそもその話し合いに何の決着もつけられず、いたずらに時ばかりが流れるかもしれません。
それならば「くじびきで恨みっこなしね!」と決めてしまった方が、スピーディな決定ができますし、自分の望む土地を得られなかった人も「運が悪かった、仕方ない」と諦めもつくのかもしれません。ましてこのくじびきは神様の命令です。当然、神様がそのくじに介入して、ご自身の意志を反映させたりもするわけです。そしてこの場合、いつまでも「決まらない」ということは巨大なリスクです。土地の所有が決まらずにグズグズしているうちに、他の民族がその土地を奪いに来ないとも限らないからです。
僕は大きな決断をする時、たとえば「この仕事を受けるべきか受けないべきか」と悩んだ時、もちろんしっかりとそれについて考えますが、考えても考えても結論が出せない場合には、サイコロを投げて「偶数なら受ける。奇数なら受けない。」と決めてしまうことがあります。「そんないい加減な!」と思われるかもしれませんが、限界まで考えても決められないということは今後も決まらない可能性が高いですし、それだけ悩むということはどっちの選択肢を取ったとしてもメリットとデメリットが同じくらいだということです。それならばそれ以上、そこで時間と脳みそのキャパシティを大量に使い続けるよりは、サイコロで決めてしまった方が効率的です。「決まらない」ということ自体が大きなリスクですから、くじででもサイコロででも、決めてしまって行動を開始することでそのリスクは回避することができます。
そして実際に振ってみると「よし、これで決めた!」ということもありますし、「いや、もう一度振ってみよう」ということもあります。前者の場合はもちろんそのまま決めればいいのですが、後者の気持ちになったときは自分の心のどこか奥底で、本心ではその結論を望んでいないのだということがわかりますから、そんな時は反対の結論にしたっていいんです。
考えても話し合っても結論がなかなか出なそうな問題には、それで「決定」はしないまでも、とりあえず一度くじやサイコロに相談してみる、というのは意外といい方法なのかと思うんです。
と、いうわけで僕はこれから今日の晩ごはんのおかずのサイコロを振ります。偶数なら「鶏セセリのホイル焼き」奇数なら「フグの干物」にします。どっちもスーパーの半額シールで買ったので賞味期限がギリギリなんです。どっちを先に食べるか、意外と大事な決断なんです。
それではまた。
主にありて。MAROでした。