やわらかなスタンドの光が、眠りについた友樹と翔を照らしている。
6畳間の襖(ふすま)をそっと閉め、真沙子は謙作が待つダイニングキッチンに向かった。
「お待たせ」
「眠った?」
「ぐっすり」
真沙子がお茶の用意を始めると、謙作は覚悟を決めたように、テーブルに広げていた夕刊をたたんだ。
「何かあったの?」
「うん……」
真沙子は湯気のたつ茶碗をテーブルに置いて夫の向かいに座った。
お茶を一口啜(すす)ると、謙作が語り始めた。
それは今日の牧師会での出来事であった。この春に神学校を卒業した献身者を一人、引き受けてほしいという要請が本部から来た。そのことについて皆で話し合ったのだが、どこも引き受け手がないというのだ。
「みんな台所事情が苦しいもんね」
「そういう理由じゃないんだ」
「何?」
「その人って、病気なんだよ」
「病気?」
「心の病気。鬱(うつ)病なんだ。退院したのは半年前だし、いまのところ再発の気配はないらしいんだけど。主治医の先生いわく、『先のことは予測できないし、最悪のことが起こらないとは言い切れないので、引き受ける教会は覚悟がいります』って。それでみんな退(ひ)いちゃったんだ」
「最悪のことって、もしかしたら……」
「自殺のおそれがあるってこと」
真沙子はしばらく黙り込んでしまった。
「正直なお医者さんね」
「クリスチャンドクターで、この先生が彼女を信仰に導いたということだよ」
「彼女? その献身者って女の人なの?」
「そう。29歳。独身」
「女の人かあ……」
「本人は、『神様にすべてをお委(ゆだ)ねして、精いっぱい教会に仕えたい』って言ってるらしい」
「ふうん……」
「実は、この人を伝道師としてうちで引き受けようと思うんだ」
さりげない言葉。
真沙子は最初、謙作が何を言っているのかわからなかった。
「献身して、神学校に行って、やっと卒業できたのに、遣(つか)わされる教会がないなんて、おかしいよ。教職者が余ってるっていうならわかるけど。これだけ牧師が不足してて、無牧の教会だっていっぱいあるのに」
真沙子は唖然(あぜん)とただ謙作を見ている。
「いかなる理由があろうと、献身者を教会のほうが拒(こば)むなんて、間違ってるって思うんだ。キリストは『すべての人を愛しなさい』って言われたんだよ。愛するっていうのは、受け入れるってことだよ。この人を拒むことは、キリストの教えに反しているよ。牧師として、いや、クリスチャンとして恥ずかしいことだってぼくは思うんだ。
ほかの先生を非難してるわけじゃないよ。これはぼくの問題。神様とぼくとの問題なんだ。ぼくは牧師としての経験も浅いし、クリスチャン歴もマコより短い。甘い考えとマコは思うかもしれないけど。でも、絶対安易な気持ちじゃないんだ。ぼくなりに、考えに考えて、祈って決めたことなんだ」
「決めた?」
「あ、いや、その……」
「まさか、もう返事したわけじゃないでしょうね」
「役員さんたちはぼくが説得するから」
「本部に言っちゃったの!」
「ごめん!」
真沙子にとって、夫のこの言葉は、「伝道師を引き受ける」といった言葉以上に、信じられないものであった。
浅香台キリスト教会に遣わされて2半年。引退した前の牧師が経験豊富な年配者だったために、年若い謙作はともすれば教会員に侮(あなど)られ、軽んじられがちだった。信仰歴の長い役員たちに特にその傾向が強く、気弱な謙作は役員に頭が上がらず、彼らを恐れていた。
それなのに、これほど重大な教会人事に関することを一人で決めて、返事をしてしまったというのである。
「ケンちゃん、あなた……いったいどうしちゃったの」
ここまで来ると怒る気にもなれず、真沙子はかえって心配になってきた。
「ごめん、勝手なことをして……」
「どうして妻の私にひとこと相談してくれなかったの」
「相談したら、反対されると思って……。わかってるんだ、すごく大変だってことは。でも、どうしても決断しなければいけなかったんだよ。というより、そう決断するしかないとわかっていることだったから。マコに反対されて決断できなくなったら困ると思ったんだ」
呆(あき)れるような言い訳だったが、一文字に口を結んだ謙作の表情からは強固な決意が感じられた。
返す言葉が見つからず、真沙子は黙って冷めたお茶を飲み干した。「最悪のことが起こったらどうするの」
「そんなことは起こらない」
「そんな保証はないでしょう」
「神様がきっと守ってくださる。ぼくは信じる」
「でも、起こったら?」
「そんなことが起こらないように、ぼくは自分の全信仰をかけて祈る」
真沙子の眼をまっすぐに見て、謙作は一気に言い切った。曇りのない、真剣そのものの眼をして。
謙作にこんな面があるとは、真沙子には意外だった。出会った時から謙作は、押しがきかず、どこか頼りなかった。洗礼を受けたのも、神学校に入学したのも、「お世話になった牧師夫妻を喜ばすため」と言うのだから、気が抜ける話である。神学校に入学した者たちは、「明確な神からの召命を受けている」と答えるのが普通だったからである。
この人は伝道者としてやっていけるのかしらと、謙作とつきあえばつきあうほど、真沙子の心配は深まっていった。謙作と結婚したのは、心配で放っておけないというのが、もしかしたら一番の理由だったかもしれない。
最初は戸惑っていた真沙子だったが、こんな謙作の一面を見て、少しずつ歓(よろこ)びのほうが勝ってきた。夫を大変誇らしく思ったのである。
「わかったわ。役員さんたちを説得する時、私も味方するから」
真沙子は覚悟を決めた。
6畳間の襖を開けると、友樹と翔は深い寝息を立てていた。
謙作は三つ並んだ布団の一番奥に入ると、すぐにホッとしたように眼を閉じた。
真ん中の布団には友樹。真沙子は手前の布団に翔と一緒に寝ている。ここだと、友樹が布団をはねても手が届くし、翔が怖い夢を見るとか、「おしっこ」と言って夜中に起きた時などに、すぐに応じられるからである。
友樹の上布団をかけ直し、翔の寝相を直してから、枕元の明かりを消して、真沙子は布団に入った。
「うちに来ることになったその伝道師さんって、何て名前なの?」
謙作の眠そうな声が応えた。
「何ていったかな……たしか、フジサキ……」
真沙子は心の板に書き記すように、「フジサキ先生」と小さな声
で繰り返した。
「名前は?」
「……トウ……コ……」
謙作の寝息が聞こえてきた。(つづく)