【連載小説】月の都(27)下田ひとみ

 

もしもタイムマシンがあったら。

ぼくはあの日に帰る。

 

頭の中にひとつの詩が浮かび上がっていた。

 

あの街の、

雑貨屋の角を曲がった、

夕暮れの踏み切りに。

 

謙作が陶子のアパートに着いたのは、ふみからの電話を切った10分後であった。部屋のチャイムを鳴らしたが、返事がない。合鍵を取り出して、謙作はドアを開けた。

玄関に見覚えのある靴があった。

「藤崎先生!」

大声で陶子を呼んだ。

「藤崎先生、おられませんか! 名倉です」

 

空は薄墨(うすずみ)色に翳(かげ)り、

線路の脇にはワレモコウが揺れている。

 

「失礼して上がらせていただきます!」

謙作は靴を脱いで、部屋に駈け上がった。

 

警笛が鳴っている。

ぼくは自転車で全速力で競争する、

近づいてきた下り電車と。

 

もしもタイムマシンがあったら。

間に合うんだ。

 

まるで舞台のセットのようだった。

片づいた部屋。清潔なキッチン。生活感のない住まい。

陶子の姿はどこにもなかった。

 

遮断機が下り始めている。

息を切らして、ぼくは自転車から飛び降りる。

 

心臓の鼓動が大きくなっていく。暗い予感が、確信へと変わっていく。謙作は乱暴にクローゼットを開け、押し入れを開け、洗面所のドアを開けていった。

陶子は浴室に倒れていた。

ぐったりとうなだれて。手首から血が流れていた。抱き起こすと、息があった。

「藤崎先生!」

呼びかけると、うっすらと眼を開けた。

 

もしもタイムマシンがあったら。

間に合うんだ。

 

謙作は携帯電話を取り出した。

こういう時に備えて、陶子の住所は頭に叩き込んであった。

「落ち着け」

ダイヤルをプッシュする。

「落ち着け」

必死で自分に言い聞かせる。

つながった。

「救急車をお願いします。こちらは山宮町2丁目4の19。コーポ桂木401号室です」

 

今なら、間に合う。

今度は、間に合う。

間に合わせてみせる。

 

遠い過去の母の笑顔を、謙作は思い出していた。

幸せそうな笑顔。

ああ、どれほどその笑顔に憧れていたことか……

あなたが恋しくて。あなたに会いたくて。どんなにかあなたを失いたくなかったことか……

 

生きててほしかった。

お母さん。

 

「死ぬな!」

謙作は陶子を抱きしめていった。

「死ぬな! 死ぬんじゃない!」

謙作は泣いていた。

「お願いだ。死なないでくれ……」(つづく)

月の都(28)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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