もしもタイムマシンがあったら。
ぼくはあの日に帰る。
頭の中にひとつの詩が浮かび上がっていた。
あの街の、
雑貨屋の角を曲がった、
夕暮れの踏み切りに。
謙作が陶子のアパートに着いたのは、ふみからの電話を切った10分後であった。部屋のチャイムを鳴らしたが、返事がない。合鍵を取り出して、謙作はドアを開けた。
玄関に見覚えのある靴があった。
「藤崎先生!」
大声で陶子を呼んだ。
「藤崎先生、おられませんか! 名倉です」
空は薄墨(うすずみ)色に翳(かげ)り、
線路の脇にはワレモコウが揺れている。
「失礼して上がらせていただきます!」
謙作は靴を脱いで、部屋に駈け上がった。
警笛が鳴っている。
ぼくは自転車で全速力で競争する、
近づいてきた下り電車と。
もしもタイムマシンがあったら。
間に合うんだ。
まるで舞台のセットのようだった。
片づいた部屋。清潔なキッチン。生活感のない住まい。
陶子の姿はどこにもなかった。
遮断機が下り始めている。
息を切らして、ぼくは自転車から飛び降りる。
心臓の鼓動が大きくなっていく。暗い予感が、確信へと変わっていく。謙作は乱暴にクローゼットを開け、押し入れを開け、洗面所のドアを開けていった。
陶子は浴室に倒れていた。
ぐったりとうなだれて。手首から血が流れていた。抱き起こすと、息があった。
「藤崎先生!」
呼びかけると、うっすらと眼を開けた。
もしもタイムマシンがあったら。
間に合うんだ。
謙作は携帯電話を取り出した。
こういう時に備えて、陶子の住所は頭に叩き込んであった。
「落ち着け」
ダイヤルをプッシュする。
「落ち着け」
必死で自分に言い聞かせる。
つながった。
「救急車をお願いします。こちらは山宮町2丁目4の19。コーポ桂木401号室です」
今なら、間に合う。
今度は、間に合う。
間に合わせてみせる。
遠い過去の母の笑顔を、謙作は思い出していた。
幸せそうな笑顔。
ああ、どれほどその笑顔に憧れていたことか……。
あなたが恋しくて。あなたに会いたくて。どんなにかあなたを失いたくなかったことか……。
生きててほしかった。
お母さん。
「死ぬな!」
謙作は陶子を抱きしめていった。
「死ぬな! 死ぬんじゃない!」
謙作は泣いていた。
「お願いだ。死なないでくれ……」(つづく)