数蒔(かずま)の病室にいた時であった。一人息子の勲(いさお)は学生で、普段は京都で下宿生活をしている。父親危篤(きとく)の知らせに帰省をし、紘子とともに病院に詰めていた。
病院は海辺に建っており、数蒔の病室は海に面していた。穏やかな陽が窓から射し込み、波の音が聞こえている。
そのとき紘子はベッドの脇の椅子に腰かけ、林檎(りんご)の皮をむいていた。勲は長椅子で雑誌を読んでいる。テーブルに置かれたガラス製の水差しが陽を浴びて光っていた。
「決めたよ」
夫は眠っていると思っていたので、紘子は驚いて顔を上げた。
「あなた?」
「山賀神父を呼んでくれ」
その言葉を紘子は不審に思った。山賀神父とは、西長坂カトリック教会の司祭だった。夫とは数度、面識がある程度で、親しい仲ではない。
「山賀神父様に何かご用ですの」
「洗礼を受けたいんだ」
紘子は果物ナイフをゆっくりと皿に置いた。何を聞いたのか、わからなかった。それをどう受けとめていいのかも、わからなかった。突然の、あまりに思いがけない言葉であった。
勲は素直に「回心」と理解したようだった。立ち上がって、父親のもとに行くと、その手をにぎり、声を詰まらせた。
「お父さん……」
「早く……間に合わなくなる」
そう言うと、数蒔は引き込まれるように眼を閉じてしまった。昏睡(こんすい)に陥ったようであった。
電話で事情を伝えると、山賀神父が駈けつけてきた。
紘子は、何が起きているのか、わからなかった。
何が起ころうとしているのかも、わからなかった。
眼を閉じた夫の姿を、ただ凝視していた。
この間にも短い秋の日は暮れていった。
太陽が西に傾き、海に沈んでいく。
色を深めていく紫色の空。
暮れなずむ銀色の水面。
浜辺には子守歌のような潮騒(しおさい)が響いている。
やがてすべては闇に覆われていった。
数蒔が目を覚ましたとき、紘子は夫の手をにぎっていた。
「山賀神父様に来ていただきましたよ」
紘子が声をかけると、数蒔は穏やかに頷(うなず)いた。
替わって神父が枕元で話しかけた。
「西長坂教会の司祭をしている山賀です。洗礼をお受けになりたいということですが、今お受けになりますか」
数蒔の眼が深く頷いた。
「イエス・キリストをあなたの救い主と信じますか」
弱々しい声であったが、数蒔は明確に答えた。
「はい」
枕元に聖水が用意された。
神父が式文を読み上げ、聖水を手にした。
「私は父と子と聖霊の御名によって、あなたに洗礼を授けます」
まるですべての力を使い果たしてしまったかのようだった。洗礼が授けられた後、数蒔はふたたび昏睡に陥った。何度声をかけても、手をにぎっても、何の反応もなかった。
そのまま息を引き取った。(つづく)