「哲学」ってどんな学問?と問われると、正直よくわからない。 プラトンやアリストテレス、ソクラテス、ニーチェ……哲学者の名前だけはなんとなく知っているけれど、誰が何を説いていたかはさっぱり……。
8月28日に発売された『聖書を読んだら哲学がわかった キリスト教で解きあかす「西洋哲学」超入門』(日本実業出版社)は、そんな(筆者のような)人におすすめしたい1冊だ。著者は「上馬キリスト教会Twitter部」(@kamiumach)の「まじめ担当」ことMAROさん。弊サイトでも「聖書からよもやま話」連載をはじめ、多くのコラムを執筆している。
MAROさん曰く、哲学=“あたりまえ”の学問。
世界で最初の哲学者と呼ばれるタレスが「万物の根源(アルケー)は水である」と主張したのを皮切りに、ヘラクレイトス「火だ」、ピタゴラスは「数だ」と、他の哲学者たちがさまざまな説を唱え出した。
ある人が「これが定説(あたりまえ)です」と言ったことに対して、別の人間が「ちょっと待って、それって本当にあたりまえ?」と疑問を抱き、自分なりの答えを探して見つけ出す。こうして人類の歴史と共に何度も覆されてきた“あたりまえ”が、哲学の歴史でもある。
本書ではMAROさんと哲学との出会いや、西洋哲学の歴史を紐解きながら、ソクラテスの「無知の知」、プラトンの「イデア論」といった、歴史に名を遺す哲学者たちの思索を“ゆるく”解説。
タイトルを読むだけでは、イエス・キリストと哲学にどんな関係が?と思うが、イエス・キリストは賢い人や強い人、美しい人、富んだ人が善とされた時代に「弱い者こそ幸せである」「身分や外見、生い立ちなどに関係なく、神はすべての人を愛している」と説き、十字架と復活によって死は絶望や敗北ではなく、永遠であると示した。つまり、当時の“あたりまえ”をことごとく覆した存在であり、その後の哲学者たちに大きな影響を与え続けているのがイエス・キリストだという。
聖書との出会いをきっかけに、さまざまな“あたりまえ”をひっくり返され続けているというMAROさんに話を聞いた。
――1章の終わりに、現代はまれに見るほどの変化の時代であり「“あたりまえ”の多様化」「従来の“あたりまえ”の崩壊」が起こっている時代と書かれています。MAROさんが今、この時代にこの本を書こうと思われた背景について教えてください。
現代は価値観が多様化して、つまり”あたりまえ”が多様化して、「何が正しいのか」と迷子になってしまっている人が多い時代だと思います。だからこそ「あたりまえ学」である哲学が必要になるのですけど、哲学自体も多様化してしまってどこから手をつけていいのか分かりません。手をつけてみても自分がどこにいるのかわかりません。だったらそこに「地図」があれば良い。そして地図には座標が必要です。その座標軸として聖書というのはすごくいいぞと。
でも実は、「いま」書きたいと「僕が」決めたわけではないんです。ある時エージェントさんとのブレインストーミングの中で「哲学×聖書」というアイデアがポンと出てきて。それを膨らませていったらこういう形になったと、そんな感じなんです。で、書き進めているうちに「これって今の時代にタイムリーなのかも」と後から気付きました。なのでこの本がタイムリーなのだとしたら、それは神様が神様のタイミングで働いてくださったということです。
――まさに「神のなさることは、すべてときにかなって美しい」(伝道者の書3:11)ですね。MAROさんは好きな哲学者の1人としてキルケゴールを挙げていますが、どんな思索に惹かれたのでしょう?
キルケゴールのいう三つの実存というのを、たぶん僕も同じように体験したからだと思います。だからキルケゴールは僕にはとても親しみやすいし共感できるんです。「欲望のままに生きる」から「自分の力で正しく生きる」になり、そこで自分の力に絶望して「神の前に自分をさらけ出す」というステージに至る。キルケゴールに初めて出会った時はまだ神様を信じてなかったので「最後に神が出てくるんじゃ欠陥品じゃん」と思っていたのですけど、やがて信仰に至った時に、「あ、キルケゴールの言ってたことはまさにこれだ」と実感したんです。
――本書では、MAROさんが哲学を学んで(挫折して)いるときに聖書を読んだとありました。イエス・キリストがいろんな“あたりまえ”をひっくり返したように、MAROさん自身にはイエス様にいろんなことをひっくり返されたような感覚はありましたか?
ありましたよー。それまで頭の中に構築していたものを全部ゼロから組み上げるような。レゴでお城を作るとして「もうすぐ完成だな!」と思っていたものを一度でも全部バラバラにして組みなおすような。天動説から地動説になるような、まさにコペルニクス的転換。
あらゆる価値基準を自分の内側に置いていたところから、「神」という自分の外側に置くようになったということです。それは例えば自分が「正しい」と思ったことが必ずしも正しいとは限らない、ということです。
――MAROさん自身がいま大切にしている“あたりまえ”はなんですか?
強いて言えば「あたりまえは存在しない」ということです。食べるごはんがあることも、呑む水があることも、この体があるということも、生命があるということも、世界があるということも、何もかも、勉強すればするほど天文学的に低い確率の産物であってけっしてあたりまえとは言えません。
たとえば、諸説ありますけど地球上には100兆もの生命が生きているんだそうです。人間の人口を100億としても、自分が人間に生まれてくる確率って10000分の1です。僕が人間であることもあたりまえではないんです。
――本書に書けなかったエピソードなど、ウラ話があれば教えてください。
ウラ話は、言えないからこそウラ話なわけで(笑)。
でも「実は」な話をすれば、今回の本は僕の好きな哲学者はあんまり出てきてないんです。キルケゴールくらいしか。パスカルもアランもヒルティも、本当はこの辺を書く方が僕自身は楽しかったんでしょうけど、あえて書いてません。というのは、そこを書いてしまうと今回のテーマの一つである「哲学の座標軸」というのがボヤけてしまうからです。あと老子も好きなんですけど、今回は「西洋哲学入門」なので触れませんでした。
というわけで、「好きな人が近くにいるのに会いに行けない!本当はそっちに行きたいけど、今僕はそっちに行ってはいけないんだ!」みたいなロマンチックな切なさがありました。
――“せかゆる(『世界一ゆるい聖書入門』)”に次ぐ、シリーズ化もありうるかもしれませんね。最後に、この記事を読んでくださる方へメッセージをお願いします。
タイトル通り「哲学ってイマイチよくわからない!」って人にまず読んでほしいのですが、もうちょっと広げると「脳みその殻を破りたい!でも破り方がわからない!」って人のヒントになれたら嬉しいなと思ってます。”あたりまえ”って、壊したり破ったりするのは怖かったり難しかったりするんじゃないか、って思ってる方も多いと思いますけど、意外と難しくないし怖くないですよって伝えたいです。むしろ”あたりまえ”の残酷さに気づいてほしいと思います。特に聖書という「港」を持っているクリスチャンならなおさらです。いつでも戻れる大きな港があるのに、何が怖くて”あたりまえ”なんかにしがみついているのかと。
それと、もう一つクリスチャンの方に言うのなら”あたりまえ”を一度壊さないと聖書をいくら読んでも分からないんじゃないかってことです。聖書を読むのに僕がいちばん「これじゃまだなぁー」と思うのは自分の中の”あたりまえ”です。それは今でもそうです。これから時間をかけて、一つひとつ神様が壊してくれると思ってますけど。
――個人的には“あたりまえ”がひっくり返される瞬間は、パウロの“目からウロコ”体験(使徒言行録9:18~19)のようで、ワクワクします。貴重なお話をありがとうございました!
MARO(上馬キリスト教会ツイッター部) 1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒業。キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。著書に『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)など。『人生に悩んだから「聖書」に相談してみた』『キリスト教って、何なんだ?』 聖書を「知ってもらう」「使ってもらう」ための試行錯誤 上馬キリスト教会 MAROさんインタビュー 2020年10月1日
【インタビュー】上馬キリスト教会のツイッターで人気、MAROさんの連載開始 幸せに楽しくなるキリスト教を伝えたい(前編)