カトリック長崎大司教区の高見三明(たかみ・みつあき)大司教(72)は先月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録を受けて、コメントを出した。その中で、「日本初のキリスト教関連の世界遺産となることを大変ありがたく嬉しく思います」と登録決定を歓迎した。
高見大司教自身も長崎の潜伏キリシタンの家系に生まれた。先祖は、江戸時代初めにローマに渡った仙台藩のキリシタンで、禁教下の日本に戻り、長崎に逃れて「潜伏キリシタン」となった。幕末から明治にかけてのキリシタン弾圧では高祖父母が牢死。曽祖父も捕らわれの身となったという。
日本国内に40万人以上の信者がいるカトリックにおいて、「大司教区」は東京、大阪、長崎にあり、高見氏は2003年から長崎大司教となって、今年で15年目。
大司教公式コメント全文を掲載する。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録を受けて
カトリック長崎大司教区 大司教 髙見三明
本日、バーレーン王国の首都マナーマで開催されたユネスコ世界遺産委員会は、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界文化遺産登録を承認いたしました。構成資産の一部である長崎の教会の所有者としてコメントをさせていただきます。
まず、長崎地方の潜伏キリシタン※関連遺産が世界中のすべての人々にとって価値を有すると認めていただいたこと、日本初のキリスト教関連の世界遺産となることを大変ありがたく嬉しく思います。
ことの発端は、2001年9月15日に「長崎の教会群を世界遺産にする会」が発足したことでした。2007年7月に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコにおいて世界文化遺産候補として承認されました。その後名称の変更もあり、紆余曲折(うよきょくせつ)を経て今回の正式登録に至りました。これまでの17年間さまざまな仕方でご尽力くださいました各方面のすべての方々にこころより深く感謝を申し上げます。特に長崎県および文化庁の関係者、各自治体、イコモス、ユネスコ世界遺産委員会、さらに支援してくださった多くの民間の方々に篤(あつ)く御礼を申し上げます。
さて、長崎地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産として登録されたということは、世界中の人々から認められ得る価値を有するということです。一言でいえば、日本における470年に及ぶ、他に類を見ないキリスト教の歴史につらなり、それを物語る「証し」だということです。
(1)キリスト教の伝来と繁栄
キリスト教は、イエズス会宣教師ザビエル神父一行の渡来(1549年8月)以後、九州から東北に至るまで多くの日本人に受け入れられ発展しました。信者の数も、1600年初頭には約1200万人の全人口のうち50万人近くまで増えたと思われます。全国に教会が200ほど建造され、付属の初等学校に加えて、有馬と安土には中等学校のセミナリヨ、府内には大神学校のコレジオ、さらには病院や看護養成所などが設立されました。イエズス会宣教師がもたらした数学、物理学、天文学、航海術、地理学、印刷術、さらに音楽や絵画などの学問と芸術は、日本文化の近代化と近代科学勃興の基礎となったと言えます。ボランティアの「慈悲の組」も人間形成と隣人への奉仕によって精神文化に寄与しました。キリスト教と茶の湯の相互関係もありました。
(2)禁教と潜伏
天下を統一した徳川家康は、キリスト教の平等思想や貧者救済を危惧し、特に西欧列強の侵攻を排除するため、1614年1月「排吉利支丹文」をもってキリスト教を「邪法」と断じ、切支丹禁教令を全国に布(し)きました。以後260年もの間、宗門改、五人組、絵踏、高札などによって厳しい禁教政策が実施されました。諸外国に対して長崎の港だけを開いた鎖国政策はキリシタン排除のためでもありました。
このような状況の中で、一方ではいのちをかけて神への忠実さを貫いた殉教者も数万に及びました。他方では、特に長崎地方の浦上、外海、平戸、五島、また天草地方や福岡の今村などの信者たちは、寺請制度(檀家制度)に従って表面的に最寄りの寺の檀家となりながらも、教えと教会暦に通じた帳方、洗礼を授ける水方、帳方の連絡係の聞き役・ふれ役などの秘密組織を守り、信心会(組)を持ち、こころの中ではキリスト教の信仰を受け継ぎ、固く守り、伝えていきました。これが「潜伏」の意味です。
キリストを信じること自体が違法でしたので、「改心」すなわち棄教か、いのちを失うかの二者択一を迫られるという理不尽な扱いを受けましたし、周囲からは差別も受けました。しかし、信者たちは為政者に抗うことなく、声に出さずとも信教の自由という基本的人権を貫き、この世限りのものよりも神への信仰を優先させ、永遠に価値あるものを希望し続けました。彼らのこの生き方は崇高でさえあります。
(3)キリシタンの復活
幕末の1858(安政4)年に米、蘭、露、英、仏の五か国は江戸幕府に開国を迫って修好通商条約を結び、国内でも尊王攘夷論や討幕運動が起こって時代が大きく変わろうとしていました。そのような中、1865年3月17日、パリ外国宣教会のプティジャン神父が大浦に建設した天主堂を浦上のキリシタンたちが訪れ、神父に先祖代々守って来た信仰を表明したのです。これが「日本の信徒発見」と呼ばれ、キリシタンの復活を画する出来事でした。
7代待ち望んだカトリック司祭の到来に勇気づけられたキリシタンたちはそれまで隠していた信仰を公に表明するようになりました。その結果、1867年7月15日未明に長崎奉行による一斉検挙が行われました。これが浦上四番崩れです。翌1868年、幕府の禁教政策を踏襲した明治政府は浦上のキリシタン3400余名の流罪処分を決定し、20藩の22か所に順次配流したのです。この事態を受けて上記の五か国が政府を強く非難し、条約改正のため米欧に派遣された岩倉具視遣外使節団は行く先々で痛烈な非難を浴びたため、1873年2月「切支丹禁制の高札」が撤去されるに至りました。そして16年後公布された「大日本帝国憲法」第28条において信教の自由が認められるのです。これはキリシタンたちが一貫して信仰を固く守った成果の一つです。
こうして1873年3月に浦上のキリシタンは帰郷を許され、4月から7月にかけて次々に配流地を後にしました。そして最初にしたことは、教会を建設することでした。同じように各地で教会が建造され、それを中心にして潜伏時代を通して受け継いだ信仰を生きて、さらに後世に伝える共同体(集落)が存続してきました。
世界遺産と認められた教会はそのほんの一部ですが、キリシタンの繁栄と潜伏と復活の歴史を静かに証ししています。世界遺産と認められた教会だけではなく、他の教会を訪れるとき、それぞれの背後にある人々の歴史に思いを馳(は)せ、こころの糧にしていただければ幸いです。
拝観の際のマナーの順守はもちろんですが、文化財としての教会堂保全のために皆様方のご支援を末永くよろしくお願い申し上げます。
※「キリシタン」は、ポルトガル語Christãoのカタカナ表記で、「キリスト教」と「キリスト信者」の双方を意味する。漢字では「吉利支丹」から悪意を込めた「切支丹」へと変更された。