関東大震災(1923年9月1日発生)直後に数千人といわれる朝鮮人が虐殺されてから100年になるのを前に、「2023信州夏期宣教講座エクステンション」(信州夏期宣教講座主催)が17日、対面とウエブ会議サービスZoomを使ったオンラインのハイブリット型で行われた。会場となったのは、福音伝道教団大間々キリスト教会(群馬県みどり市)。「関東大震災朝鮮人虐殺ーーその時教会は」というテーマで星出卓也氏(日本長老教会西武柳沢キリスト教会牧師)が講演を行い、教団・教派を超えた教職・信徒ら40人が参加した。
南関東および隣接地に多大な被害をもたらした関東大震災は、関東にいた朝鮮人が広範囲に虐殺されるという人災をも引き起こした。地震発生直後に「社会主義および朝鮮人の放火多し」の流言が流布され、墨田区旧四ツ木橋などで朝鮮人の虐殺が始まった。翌日政府は戒厳令を発令し、軍だけでなく日本刀や竹やりで武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人を見つけ出しては殺害して回った。虐殺人数は官庁記録でさえも487人、歴史学者の調査では6644人という数字が報告されている。
講演の前半では、関東大震災直後にデマがどうして流れ、軍だけでなく民衆までもが朝鮮人虐殺という恐ろしい行為に出たのかを、そこに至るまでの日本と朝鮮の歴史を紐解きながら「不逞鮮人(ふていせんじん)」をキーワードにその理由について語った。
大日本帝国は1910年、日韓併合によって朝鮮半島を統治下に置いたが、朝鮮の民衆は日本の統治に併合前から激しく反発していた。19年には三・一独立運動が起こり、その頃から、政府に反発する人たちを秩序を乱す反乱分子ということで「不逞鮮人」という差別的な呼称が使われるようになっていた。この呼称には、「日本は朝鮮に対して正当なことをしているのになぜ暴動を起こすのか」という朝鮮人への無理解と蔑(さげす)む意識が見て取れる。その一方で、「奴隷のように扱っている朝鮮人労働者がいつか暴動を起こすのではないか。いつか仕返しをされるのではないか」という恐怖心も抱いていた。その両方の思いが、大地震の混乱の中で流されたデマによって爆発し、虐殺という事態に至ったと考えられる。
講演の後半では、当時のキリスト教会がこの状況をどのように見ていたかを話した。日本の代表的な教会リーダーである植村正久と内村鑑三が残した当時の記録を示しながら、いかに当時のキリスト教会が虐殺の現状に無関心であったかを述べた。個々人では、朝鮮人を匿(かくま)ったり、虐殺されそうになっているところを命懸けで止めに入ったりしたという記録も残っているが、それは点で終わってしまい、教会組織としての発言には至らなかった。当時の朝鮮半島の占領統治の理解が、キリスト教会も日本社会の理解とほぼ変わらなかったことを指摘した。
関東大震災では火災が広範囲に発生し、火は木造住宅が密集している東京などに瞬く間に広がっていった。それと同じように、朝鮮人への流言飛語は、それまでに日本人の中に培われていた朝鮮人に対する憎悪や恐怖心に火をつけ、消せない火となって燃え広がっていった。「不逞鮮人」という言葉がコード化されたことで、日本の民衆は朝鮮人を血が通った人と見ることができず、恐怖心が勝って押し流されるようにして朝鮮人虐殺の暴徒へと突き進んでいってしまった。
翻(ひるがえ)って今を見ると、当時撒(ま)かれたガソリンにいつ火がつくか分からない状態だと星出氏は危惧する。今日よく耳にする「反日」という言葉は、当時の「不逞鮮人」ほどでないとしても「日本に敵愾(がい)心を持つ人たち」という感覚で使われ、それが一般の人に広がりつつあると警鐘を鳴らした。そして、過ちを繰り返さないためにこう訴えかけた。
「その時に立ち止まり、違う視点に立てるかは、愛する友として交流する中で、いかに信頼関係が築かれているかにかかってきます。人間同士の信頼関係が息づく社会の中では、『反日』や『敵』ではなく違う言葉を語ることができるのではないでしょうか」
信州夏期宣教講座は、日本のキリスト教宣教史を再考し、長い目で福音の宣教に加わっていくための教派を超えた有志の学び会。信州の静かな温泉宿でくつろぎつつ心を燃やしている。1993年来、いのちのことば社からブックレットを刊行し、各地でエクステションも行い、発信に努めている。来月8月には、30回目となる同講座が長野県上田市で開催される。日時は8月21日(火)〜22日(水)。講師に高木創氏(福音伝道教団沼田キリスト教会牧師)と山口陽一氏 (東京基督教大学学長)を迎え、学びと討論を行う。