北九州を拠点に、困窮孤立者の生活再建を包括的に支援するNPO法人「抱樸(ほうぼく)」は、これまで、さまざまな分野の人をゲストに招き、理事長で東八幡キリスト教会牧師の奥田知志(おくだ・ともし)さんと対談を行ってきた。今回は、10年にわたって東北の被災地でライブ活動を続けるソウル・フラワー・ユニオンの中川敬(なかがわ・たかし)さんと、「路上の祈りと歌から 東日本大震災10年を考える」というテーマでオンライン対談を行い、8日、ユーチューブで配信された。
中川さんは兵庫県西宮出身。「満月の夕(ゆうべ)」「キセキの渚」「死ぬまで生きる!」など、祈り・連帯・慈愛に満ちあふれた楽曲で知られるが、それらの歌が生まれた背景には、阪神・淡路大震災の被災地で開始したソウル・フラワー・モノノケ・サミット名義による出前慰問ライブ活動があった。
プロデビューして6年目に発生した阪神・淡路大震災。当時28歳だった中川さんは、メンバーの1人に避難所へ「歌いに行かないか」と誘われ、神戸に向かった。派手な服装で、沖縄の音楽や、アリラン、日本の民謡などを奏でる姿に、避難所の人たちは大喝采した。思いがけないその歓迎ぶりに感動し、そこから被災地と大阪の往復が始まった。
「自分たちのパフォーマンスを避難所の人たちが盛り上げてくれ、こちらが応援されていたように思う」と中川さんは当時を振り返る。その中で、自分の音楽人生が変わった出会いの瞬間を経験し、「細かいことを頭で考えずに、避難所にどんどん歌いに行こう」と心に決めたという。
「満月の夕」を賞賛する奥田さん。その歌詞にある「悲しくて全てを笑う」というところで、「悲しくて、悲しくて、やりきれない」という方に向かわないで、「笑う」という言葉に持っていったことについて、この「笑う」という言葉がどこから出てきたのか聞いた。同時に、サビの部分の「解き放たれ命で笑え」というフレーズが心に響いていることも伝えた。
この楽曲が作られたのは、神戸の避難所で初めてのライブを行ったすぐ後のこと。中川さんは、どうして「笑う」という言葉にしたのか分からないと言いつつも、「当時の満月の夜、地震の余震に怯えながらも、避難所の人たちは笑顔で、生き抜くぞというバイタリティに溢(あふ)れていた。そこには本当に笑いがあった、たくましいと思った、命ここにあるなと思わせる瞬間だった」と当時を思い起こした。そして、「人間が複数いれば、笑うことができることを教えてもらった日々だった」と話した。
10年前の東日本大震災の日、大阪にいた中川さんは、悲惨な映像を見過ぎたことによりしばらく体調を崩してしまった。数日後、避難所にいる女性が、「満月の夕」を聞けてすごく嬉しいと話しているのをテレビで見て、「自分のことをしよう」と思って、東北に向かったのだという。
震災が発生してから2カ月後に総合体育館でのライブ終了後、握手を求められた60代の男性がその場で泣き崩れたエピソードについて語った。
「家族を亡くし、漁の船が流され、それまで押し殺していた悲しみや辛さが、音楽によって爆発したのだと思う。避難所という空間は、プライバシーを持つことができず、喜怒哀楽の感情を隠す空間なんですよね。この10年間被災地を回ってきて一番感じたのは、自分の弱さをどんどん出し合える社会にしなければいけないということ。弱いところを見せ合っている大人の姿を見て、子どもも生きやすいと思える社会にしなければいけないと本当に思う」
奥田さんは、助けを口に出すのをためらう人の心の鍵を開ける仕組みが必要だと言い、「抱樸」の活動では、おにぎりやお弁当がその役割を果たし、泣き崩れた男性は、中川さんの歌が鍵の役割をしたのではないかと話す。最後に、原発など不安を残す東北の復興の進捗、追い討ちをかけるようなコロナ禍、日本は大丈夫なのかと問いかけ、中川さんは次のように語った。
「現実だけを顕微鏡で見ると暗澹(あんたん)たる気持ちになるが、京都三条大橋に生首を晒(さら)していた時代よりは前進しているはず。今しんどい人がさらにしんどくならないよう声を上げて、少しずつでも良くしていかないといけない」