病院の人事部にかけ合い、地元の教会の代表とも交渉し、移民弁護士も最善を尽くしてくれた。けれども私のアメリカ滞在延期は絶望的となった。詳しくは書かないが、可能性はゼロとなった。同調圧力満、自分が自分でいられない、生きづらさを感じ続けた日本に戻らなくてはならないことが確定した失望は大きかった。けれども、どこかで安心してしまった自分がいた。住み慣れた日本に戻れる安堵感ではない。はっきり言えば挫折だ。アメリカで自分のポジションを取れなかった、自分なんて必要とされていないとさえ感じた。ビザを獲得できる数%の確率のためにもう闘わなくてよいという事実が、私に安堵感を与えた。もう眠れない夜、寝汗びっしょりで早朝覚醒しなくてもよいのだ。ほろ苦い挫折感を味わいながら私は徐々に日本の帰国準備を始めた。
砂時計のように、この自由の国で過ごせる時間が日に日に少なくなっていくある日、私は日本の小学校から講演会の依頼を受けた。「子どもたちはコロナパンデミックにより登校することのみならず、友だちと自由に遊ぶことすらできなくなった。そんな子どもたちに、コロナ禍の最前線で闘うメッセージを語ってほしい」との依頼だった。これまた会ったことのない100人の小学生たち。事実が簡単に歪み、真実や熱量が届き難いインターネットの世界、けれども一生懸命タブレットやスマホを握りしめ、私の話に耳を傾けてくれている100人の顔が見えた。
コロナ室で孤独の中で生涯を終える人々が毎日いること、同じく10代の子どもたちが薬物依存になっていたり、さまざまな虐待を受け、希死念慮に苦しんでいることなど、日本の子どもたちには刺激が強すぎる気がした。けれども、画面越しであるからこそ、自分がこの目で見てきた事実、触れて出会った患者さんたちの命について真剣に語らなくてはならないと思った。
子どもたちは集中力を切らさずに、一度も会ったことのない私の話を真剣に聞いてくれた。講演が終わると、子どもたちは画面越しに次々に手を上げて質問や意見を投げかけてくる。「関野さんはコロナ室が怖くないのですか?」「毎日人の死を見続け、どうやってメンタルを保つのですか?」「天国って本当にあるんですか?」「私もおじいちゃんをコロナで亡くした……」。その様子を見て先生が驚いている。オンライン授業になって、生徒たちは実際の教室にいた時よりもさらに質問をしなくなったのに今日は違うと。
そんなストレートな子どもたちに、私は体裁を整えずに答えた。コロナ室が怖いこと、本当は今でも入りたくないこと。毎日死を見続け、死に慣れてしまったような自分がいること。牧師をやっているが天国があるかどうか、実際に見たことがないから本当は分からないいこと……。そして、おじいちゃんをコロナで亡くした子にはかける言葉がなかった。オンライン越しで「天国で会えるよ」とか「君のために祈ってるよ」とか、今まで使ってきたキリスト教会の言葉を使ってきた自分はもうここにはいない。
すると、コロナでおじいちゃんを亡くしたという子が最後に手を挙げ、「関野さん、僕もチャップリンになりたいです!」と言った。思わず画面越しの先生たちが吹き出して笑っている。けれども平成生まれの彼は、自分がどうして笑われているのか当然分からない。でも、だからこそ私は彼に言った。「オッケー! 2人でチャップリンになろうね!」
20世紀最大の喜劇王チャップリンは、言葉を使わず人々に笑いを届けた。21世紀のチャプレンたちはあざけられ、馬鹿にされ、それでも言葉も超えて人々と喜びと悲しみを分かち合っていけるはずだ。
あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙12章14~15節=新共同訳)
*個人情報保護のため、所属病院のガイドラインに沿いエピソードは再構成されています。