9月16日「作家であることと、牧師であること」

 「作家であること」と「牧師であること」は、わたしにとって、事実上同じことである。つまり、最初、混沌への入り口に立って、事態が「はちゃめちゃ」になり、徐々にそこから何かが作り出される神秘が起こって、何かよいもの、何か祝福させられたものが生み出されていく。そうしたことが作家の仕事であり、また、牧師の仕事でもある。詩、祈り、会話、説教、恵みを見出すこと ―― こうしたことは、そうして生み出される。これがヘブライ語の信仰深い言葉「ヨシュア:yeshua’」で、あるいはギリシャ人クリスチャンの言葉「ソーテリア:sotêria」が示す内容である。つまり、それが「救い」である。それらの言葉は「創造の回復」「『神の像:imago Dei』の再創造」を意味する。著述とは文学的な作業ではなく霊的作業である。牧会とは宗教的ビジネスを経営することではない。それは霊的な探究でもある。

 「神の御前で精神を集中しつつ、神に傾聴する祈り」がある。それこそが牧会と著述の中心となる。著述において、わたしは言葉を用いる。牧会においては、わたしは人々と共に働く。そこでわたしが出会うのは、単なる「言葉」や「人々」ではない。そこで出会うのは精神と聖霊を伝える言葉と人々なのだ。だから、祈りなしに「言葉」を用いたり、祈ることもなく「人々」に接してはいけない。そんなことをすれば、活き活きとした命が壊れて、そこから本質的なものが漏れ始めることになる。
 

どうか次のことをしっかりと覚えていなさい。あなた方のことを聞いた最初のときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈っていることを。「神がその御心に合わせて知恵の思いと霊をお与えくださいますように。そして、そのことによって、どのように神様がお働きになるかについて透徹した理解を得ることができますように」と、わたしたちが神に願っていることを。
 ―― コロサイの信徒への手紙1章9節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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