2月15日「成長することは愛すること」

自我は成長をしなければ、自我であり続けることはできない。神の像(かたち)として創造された存在にとって「成長すること」は「愛すること」である。命あるものが静止していることは出来ない。古代生物を琥珀(こはく)の中に閉じ込め保存するようには、自我は保存されたりはしない。愛に基づく新しい行為の全ては、もはや古く小さ過ぎる土台からの脱却が必要であり、いつまでもわたしたちを幼いままに留まるよう助長するものから離れなければならない。グラーフ・フォント・デュルクハイム【Karlfried Durck-heim 1896―1988. 禅の研究をしたドイツ人。ナチス党の外交官となる】はかつて次のように主張していた。「自我を抹殺することは出来ない。あなたが考えている以上に大きな家に自我が住んでいることを、発見するだけだ。」自我が自我になるためには、「みんなが甘やかしてくれる家」や「気まぐれをいつも聞いてくれる家」よりももっと立派な家を見出さなければならない。「人はその生家を去り、結婚生活に入る」と聖書は述べる。この言葉は「快適に世話を受ける自分」から「骨を折って世話をする自分」へと移行する一つの原型である。

自己愛とはどういうものだろうか。それは「持っているもの」をどう保つかに頭を悩ませ「同じものを、もっと、少しでも」で頭が一杯になることである。だから、非常に退屈なのである。新しく語られることは一つもない。見出すべき何か新しいものは何一つない。「自己愛」は「何を持っているか」で自らを評価する。その「持っているもの」を一つでも失うとパニックになる。誰かと新しい関係に入らなければならない時がある。新しい状況に立たせられることがある。その時、「愛の新しい領域」があることを考えずに「ぞっとする喪失感の予感」だけに思いが向いてしまう自己愛にしがみつき、握りしめ、そして駄々をこねる。

人が人らしく結婚するためには分離が欠かせない。「離別」によって、わたしたちは愛の内に全面的に成熟するのである。「過去」を何度も繰り返し乗り越えて、わたしたちは命を繋いで行く。「もはや配偶者でなくなる時」、「もはや親ではなくなる時」、「もはやサラリーマンではなくなる時」、「もはや健康でなくなる時」という一つひとつの時が巡って来る。「極めて価値があり、楽しく、役に立つ時期」が人生にはある。でも、まさにその性質上、その時期は永続することは出来ない。皮肉なことだが、もし「愛」のために、その時期を長続きしようとすると、わたしたちは「愛」を破壊することになる。

離脱は「背信」ではない。「離脱」は「次」へと愛が進むために、どうしても必要なものである。そうして「愛」はより完全なものへと進むのである。愛がそのように変化するとき、しばしば「喪失」と「剥奪」の痛みが最初に来る。だが、「離別」は「喪失」ではない。― 「離別」は「新しい創造」の前提条件である。

善意にあふれた家族が、最悪な敵になることがある。もし、あなたがたが父や母をわたし以上に大切にするなら、あなたがたはわたしに相応しくない。息子や娘をわたし以上に大切にするなら、あなたがたは、わたしに相応しくない。わたしと共に最後まで行かないのならば、よい時も悪い時も共に過ごさないならば、あなたがたはわたしに相応しくない。まず自分自身に気を配っている限り、決して自分自身を見出さないだろう。しかし逆に、もし、あなたがたの最大の関心事が自分自身に気を配るのであるならば、あなたがたは決して自分を見出せないだろう。もし、あなたがたが自分を忘れ、わたしに目を向けるならば、あなたがたは自分とわたしを同時に見出すであろう。
― マタイによる福音書10章36~39節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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