2月13日「愛」

 これは詩編45編の解説である。

もし、わたしがある人と深い恋に落ちて、何年間も他の人々から気づかれず無視された事柄を情熱的に話し始めるならば、周りの人々は明らかに「愛は盲目だ」とわたしを見捨てるだろう。彼らが意味するのは、愛はわたしの欲望に合わせた幻想を他の人に投影し、その結果、その人を恋人として受け入れることが出来るようにするために、実際そこにあるものを見る能力を低下させる。だが、冷笑的ではあるが、次のことが自然に言えるだろう。わたしが他の人の真実を見るならば、わたしは決してその人と深く関わろうとすることはないだろう。更に、皮肉なフォローは、それが起こらなかったならば、あるいは、わたしが他の人の真実を見たならば、わたしは彼らと決して関りを持たないということである。なぜならば、誰でも実際の所、目に見える所や目に見えない所でも相当醜い存在なのだから。また、極めて不運な場合は、誰もが外側や内側も醜い存在である。愛は真実を見ず、幻想を作り出す。愛はわたしたちが人生の過酷な現実と関わることを無能にさせる。

しかし、一般によく言われる諺(ことわざ)は、しばしば間違いを犯すのである。盲目とは憎しみである。習性や見下しや冷笑が盲目なのである。愛は目を開かせる。愛があればずっとそこにあったものが急いだり無関心だったために見落とされていたものを見ることが出来る。愛は乱視を矯正し、自己中心で歪められたものを正確に感謝しながら認識できるようになる。愛は近視を直して、ぼんやりしか映らない遠く離れた他者が、今や美しいほどに鮮明に見えてくる。愛は遠視を治し、親密になる機会がもはやぼんやりとした脅威ではなくなり、祝福された招きとなる。愛は「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない」【イザヤ書53章2節】方を見つめ、そこに「人の子の中で最も美しく……あなたの仲間の上に喜びの油を注がれた」方を見るのである。

もし、わたしたちが他の人をありのままに見ることが出来るのならば、わたしたちが「あなたの衣は……ミルラ、アロエ、シナモンの香りを放つ」【詩編45編8節】人として見ない人は誰もいないだろう。愛は拒絶や嘲笑や軽蔑から守るために建てられた防衛を突き破り、神が愛のために創造した命を見る。

もし、わたしが貧しい人々に自分が持っている全てを与え、たとえ殉教者として火あぶりにされたとしても、愛がなければ何の得にもならない。だからこそ、わたしが何を言おうとも、何を信じようとも、何を行おうとも、愛がなければ、わたしは破綻者なのだ。
― コリントの信徒への手紙(一)13章3節

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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