「天」とは、つまり、とにかく大きいものである。はるかに大きいもの、それが天である。この「はるかに大きい」とは一体どういう意味だろうか。それは「ここにあるもの」の完成である。「ここにあるもの」から離れ去ることではない。「ここにあるもの」の全体、あるいはその総体こそが「天」なのである。わたしたちは今「ここに」その一部分を見ている。「天」とは「ここにあるもの」を拒絶して立ち現れるようなものではない。だから、わたしたちが「天」の幻を見る時、そこに見えるものは、どこまでも具体的で実際的なものとなる。 ――― 「天」の幻によって、わたしたちは自分たちの全ての言動によって構成される「リアリティー」について、確信を持ち続けることが出来るのだ。「この『現実』は果たしてよいものであるのかどうか」と、わたしたちの生きている時代が厳しく問い続けている。それでもわたしたちは、この「天」の幻によって、この「リアリティー」を手放さずに生きて行ける。「天」の幻とは仰々しい印象を残すべく黙示録の終わりにごてごてと書き添えられたものではない。「天」の幻を見る時、わたしたちは自分の人生の中にある神の法という「リアリティー」に浸されることになる。実にこの「リアリティー」こそが、何度でも神に従い直す力を与え、長期にわたってわたしたちを堅固にし、勇気を持って証すべく立ち上がらせてくれるものである。
わたしたちの人生の中に今、まさにここにあるもの。 ―― 一つの場所、一人ひとりの人、色々な景色、そして色々な音。 ―― それらを使って、わたしたちの人生の中にある「目に見えないもの」と「目に見えるもの」とがいきいきと繋がっている。「天」とは、目に見える被造物。 ―― 樹木と岩石、イエスと聖餐式 ―― の美しさと神聖さを守り支えるのだ。それはわたしたちを欺く幻想ではない。皮肉屋たちは「天」を見て、そこに幻想を見て次のように言う。「愛と希望と信仰などは、実に愚かしい、役に立たず、馬鹿げたことだ」、と ―― でも、それは違う。「天」の幻こそ「リアリティー」そのものである。「わたしたちの中で始まったもの」と「わたしたちの中で完成するもの」とは、その「リアリティー」の中で緊密に照応し合うのである。……
「ヨハネの黙示録」の中には、現実逃避をする手がかりなど、一つもない。現実世界において、勤務をこなし、社会人として責任を担わなければいけない。それが、わたしたちの責任である。その責任から逃れる「週末」の解放感を長々と(あるいは、永遠に)味わう、そのような「週末」は「ヨハネの黙示録」のどこにも書いていない。そこに描かれているのは、務めと責任を担えるようにと力づけ、その重みに痛むわたしたちを癒す幻である。
「天」は薄汚れた路地裏から作り出される。殺人事件が横行する裏小路によって組み立てられる。不倫に穢れた臥所と汚職にまみれた法廷、偽善ばかりの会堂や商業主義に侵食された教会、横領の常習犯となった徴税人たちや裏切りを重ねる弟子たちを用いて、神は「天」を形成して行くのである。天は確かに一つの都市であるが、今やそれは聖なる都となったのである。
玉座から鳴り響く雷ような声が聞こえた。
見よ! 見よ! 神が近所に引っ越してきた。
そこに住み夫婦と共に、
神が男女たちの家庭を築くのだ。
彼らは神の民となり、神は彼らの神となる。
……見よ! わたしは万物を新しくする。
―― ヨハネの黙示録21章3、5節a
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。