12月16日「オレガノとメシシバ」

 聖なる男女に関して書いている聖人伝は悪名高き失敗のジャンルである。聖人伝は退屈さと不誠実においては高い評価を得ているが、他では全く評価されていない。わたしの子ども時代の重要な聖人伝である「フォックスの殉教者たちの本」が、わたしやわたしの友人たちに聖なる生き方を深めるために大きな影響を与えたか如何かは、大いに疑問がある。わたしの記憶によれば、概(おおむ)ね、殉教者たちの本は神の畏(おそ)れをカトリックの恐れに取り替えてしまった。バトラー著の「聖人たちの生涯」は疑問の余地がない程に有益な本だが、その本は学者たちによって少なくとも神聖を肯定するためと、それを否定するためにも用いられてきた。

 わたしたちほとんどは、時々、聖なる人生を歩む衝動を持っている。 ―― 本来あるべき姿の人生。真実で善良で素晴らしい人生。わたしたちの創造者、贖(あがな)い主、聖別するお方のために、その中で、そのお方によって生きる人生である。その時、誰かからホッケーの試合観戦に来ないかとの電話がかかってくる。あるいは、サラダにはオレガノが必要だと気づいたり、芝生に生えているメシシバが急に気になったりする。そうして、わたしたちは日常生活に気を取られて聖なる日を忘れてしまう。あるいはそう思い込んでいるのかも知れない。

 それから、わたしたちは聖なる人生の本当の姿を示し、表面的な信仰を見抜いている作家や作家たちと一緒に生きていることを見出す。そしてそれは、ホッケーの試合と聖化のために生の原材料を提供してくれるオレガノとメシシバである。聖化とは他人に親切であるということではない。聖なる人生とは男性や女性が神に対して礼儀正しいことではなく、人間が自分の罪や無知や野心や道楽というありえない材料から救いを形作る神の働きを受け入れ参加することである。 ――あるいはまた、わたしたちの愛や熱望や高潔さなども含む。だがしかし、断じてわたしたちの荒削りの部分を滑らかにすることで行うのではない。聖化は「磨かれた状態」と同じではない。
 

あなたがたは従順な子どもたちとして、神の生き方によって形作られる生き方に入りなさい。エネルギッシュで聖なる者に燃えている生き方に自分を引き込んでください。眩い生き方である。神は言われた。あなたがたは聖なるものとなれ。わたしは聖なるものだから。
―― ぺトロの手紙(一)1章14~16節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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