わたしたちの子どもたちがまだ幼かった頃、わたしは敬虔な理想主義に燃えていた。それは大変なもので「わたしたちが夕食のテーブルを囲んでいる時にも、そこに教会を映し込むようにしよう」と考えた程だった。特に、日曜日になると、その理想主義がいよいよ燃え上がった。朝、わたしたちが礼拝の後、家に戻り、日曜日の夕食の食卓につく時、わたしは議論を始め、展開しようと努力したものだ。そうして、聖所としての教会で行われた祈りと賛美が、食べたり飲んだりする食卓にまで繋がってくるようにしたいと思っていた。「二つ目の讃美歌について、どう思ったのか」とか「説教の時の導入をみんなは気に入っただろうか」などと家族に尋ねたりした。「聖書を朗読してくれた教会の長老が、メルキゼデクという人名を読み上げる時、随分工夫してくれたが、みんなは気づいただろうか」という具合である。当然、本当の会話が進展することは一度もなかった。それで、ある日曜日に、一か八か、霊に促されて別の方法を思いつきそれを行った。わたしは次のように言った。「牧会祈祷の後、グリーンさんが頭を垂れ、もう再び背筋を伸ばすことがなかった。周りにいた人々は彼が祈り続けていると考えた。祝祷の後も、彼は動かなかった。その時に、彼が死んでいることが分かった。彼は殺された! さあ、どうしてそのようなことが起こったのか考えてみよう。殺人犯の動機が何だったのだろうか?」とすると会話が展開した。「本当の」会話が展開し始めたのである。信仰深くない会話かもしれないが、その会話は活き活きとなったのだ。「長老主義の清廉潔白さ」という仮面の後ろには何かがある。わたしたちは聖書朗読にその手がかりを探し求め、讃美歌を聞いてその証拠を見出し、罪が隠されていないかを確かめなければならない。毎週きっと、また、「別の犠牲者」が出るだろう。
食卓に いのちあふれる こどもたち
すっくと伸びる オリーブの枝
未来はそこに 約束されて
―― 詩編128編3節b
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。