次の13日間は拙著『取って読め』からのものである。この本は20項目に分けた書籍について、注釈を付けて読むというものである。
わたしは祈祷文を書いたり読んだりすることを軽蔑するという伝統の中で育てられた。祈祷書は、結局「死んだ祈り」だという具合だ。祈祷書を読むことは、昔からの友人と通りで出会うのとよく似ている。つまり、本一冊をパラパラとめくっては、ちょっと出会いがしらに相応しい挨拶の言葉を見つけ出し、それを読み上げるようなものだ。それで、「こんにちは。また会えて嬉しいよ。お変わりないですか? ご家族の皆さんにどうぞ宜しく。じゃまた、行かなきゃならないので、さようなら。」そんな言葉を読み上げて、祈祷書を閉じる。出会った古い友たちとのことはほとんど思い出しもしないで、その道を離れるのだ。これは実に馬鹿げてる。祈りというのは、真心から出る自発性が求められるからだ。
しかし、そう思いながら過ごしてきたある時のことだ。自分では発することが出来ないような祈りの言葉を与えてくれる祈祷書を偶然見つけたのだ。わたしが祈る気がしない時に、ある種の祈祷書は力となって、祈りをくみ出すことが出来ることに気づいたのだ。例えば、輪になって祈る時、自分の中に何か気になって仕方ないことがあったり、あるいは自分の周りにある雰囲気にこだわってしまうことがしばしば起こる。そうした時のために、祈祷書があるのだと気づいたのだ。ある種の祈祷書は、自我の茨や藪の中に閉じ込められた自分を解き放ち、神の国の広々とした場所、神の広々とした天空の下へとわたしたちを連れだしてくれる。
このことに気づく中で、一つ驚いたことがあった。わたしに大きな影響を与えてくれた祈りを辿(たど)ると、それは「(聖書に)書かれたもの」だったのだ。活き活きと霊的に教会で歌ってきたもののほとんどは「本」になっていた。つまり、それは「讃美歌」だった。わたしの祈りの世界がそれで広げられたのだ。
聖徒よ歌え! こぞって歌え!
心の底から 神を讃えて
御顔を拝せ 感謝せよ!
神の怒りは燃え上がり
燃え盛ってはいたけれど
あなたの歩んだ人生は
愛に満たされ 祝されていた
あなたを泣かせた あの夜は
あなたの笑顔の 朝となる
―― 詩編30編4~5節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。