12月4日「親密さの探究」

 この世は「恵み」とは疎遠な世界である。神であれ、人であれ、「誰かと親密になろうとすること」は、どうしても「多くの人々の支援を得ること」に繋がらない。親密さはビジネスにとっては相性が悪い。親密さは非効率的で、「魅惑」に欠ける。もし「神の愛」が儀礼としての礼拝として、「他者への愛」を性行為と同じことにしてしまうならば、わたしたちの日常は単純なものとなり、この世界は効率よく動くことが可能になるだろう。でも、そのようなことをしたら、わたしたちは「愛」を肉欲に矮小化(わいしょうか)したり、「信仰」を儀式に矮小化したり、「もっと」を求めて街を走り回ることとなる。そうすれば間違いなく、わたしたちの平和は妨害され、一挙手一投足についてあれこれ言われ、自分のいるべき家や教会に戻れと指示されることとなってしまう。魂の中の秘められたものを皆で一斉に見せ合う可笑しな宗教もある。あるいは、心の中にあることを見せ合い「露出狂」の宗教もある。それらを拒否した上で、神の契約に基礎づけられた息の長く続く「親密さ」につながっていないなら、一体どうなるのだろうか。そのようなことをしたら、後は厳しいばかりで希望を失った「ピューリタン」しか選択肢がなくなってしまう。「親密さ」を得ることは実は非常に難しい。痛みが伴う。 ―― 待望し、失望し、傷つく。だがしかし、代償が大きければ大きいほど、報いは大きい。というのも、わたしたちを愛してくれる他の人や神との関係の中で、わたしたちの「人間性」を完成させるのだ。実にその「人間性の完成」を目指して、わたしたちは神に創造されたのだ。わたしたちは口ごもり、躓いてしまう。さまよい道草を食ってしまう。遅刻し、ぐずぐずしてしまう。それらを通して、わたしたちは愛することを学ぶのだ。実にわたしたちは、キリスト・イエスにおいて、確かに、着実に、永遠に愛されているからだ。
 

待つことを長く待てば待つほどに、痛みは増す。それゆえに、わたしは神の賜物を個人的に伝えるためにそちらに行きたい。わたしの目であなたがたがより強く成長していることを見てみたい。これから何かを手に入れることを期待したいと思わないで欲しい! あなたがたは、わたしがあなたがたに与えると同じ程に持っているのだから。
 ―― ローマの信徒への手紙1章11~12節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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