「嘆くことが出来ない」ということは「他者に繋がることが出来ない」ということである。ダビデの「嘆きの歌」に学ぶことなどないと思う時、わたしたちの人生は単なるエピソードや逸話の断片になってしまう。馬鹿げたもので始まり、騒がしいだけのもので終わるだけである。そうではなく、全てが最終的に収斂する「物語(story)」の中に、わたしたちはいるのだ。ばらばらに見える部分が最終的には上手く展開され数年後に、わたしたちは「そうか、それはそういう意味だったのか?」と驚きの声を上げる。そのような「物語」の中に、わたしたちはいる。だから、物語の中にいる以上、わたしたちは「やってみてはいけないこと」がある。 ―― それは、物語を先回りしてはいけない。つまり、困難な部分を飛ばしたり、苦痛な部分を削除したり、失望を迂回したりしてはいけない。「嘆きの歌」は、喪失の泥沼に嵌まり込むことなしに、自分の喪失感の全てを話し出すことである。この「嘆きの歌」こそ、物語の中にとどまる最も重要な方法である。神がこの物語を語り続けていることを決して忘れてはいけない。その物語は大きく広大なものである。その物語に削除の手を加えてはいけない。神は優しく傍観なさるお方ではない。神は「わたしたちの詩」を喜ばれる。
大勢の群衆がイエスに従って行った。嘆き泣き続ける女性たちがついてきたある場所で、イエスは女たちのほうを振り向いて言われた。「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ自分たちのため、また自分の子どもたちのために泣くがよい。」
―― ルカによる福音書23章27~28節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。