サウルの鎧兜を後に残して、ダビデは「エラの谷」へと歩き進みました。すっきりとして、特別なものを何も身に着けず、身軽な様子で進んだ。ダビデは膨大なガラクタから解き放たれて、小川のそばで跪(ひざまず)いた。
ダビデがその小川で跪いたその時、わたしたち一人ひとりに非常に本質的なことを提示している。わたしたちは「跪くこと」によって、想像力豊かに、自分自身として生きようとしているだろうか。あるいは、慣例に従い、また聞きで二流に生きようとしているのだろうか? 神によって創造された存在として、聖霊の油注ぎを受けた者として、イエスに救われた者として、生きようとしているのだろうか? わたしたちは今日、無能な専門家に従って生きようとしているのだろうか? わたしたちはゴリアトの恐れか、それとも神によって形成されて行くのだろうか? わたしたちはサウル王に魅せられて生きて行くのか、それとも神によって生きて行くのだろうか?
祈るために、イエスは弟子たちを連れてキデロンの小川を渡って進まれた。そこには園があった。
イエスは弟子たちと一緒にその中に入られた。
―― ヨハネによる福音書18章1節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。