聖書にはダビデ物語がある。それは聖書にある他の物語と比べて、物語の筋が豊かで、細かい描写に富み、人物描写も背景となる地理的描写も豊富なものである。その物語は、どこまでも神の前に生き、神と語り合って生きる姿をわたしたちに示している。このダビデ物語は、ダビデを平凡な人物として特徴づけている。これは非常に重要だが、十分に知られてはいない。わたしたちの間にある軽蔑的な慇懃無礼(いんぎんぶれい)な用語で言えば、ダビデは「単なる」平信徒であった。ダビデの父はダビデのことをサムエルに紹介しなかった ――それはおそらく、ほとんどあり得なかったことである。ダビデの兄たちにとって、ダビデは取るに足らない存在であった。さらに悪いことがある。ダビデの家系図を学ぶと分かるが、ダビデは当時憎まれていたモアブの血筋を受け継ぐ家系であったからだ。
ダビデという人物、つまり「できそこない」の羊飼いが、神によって聖別され、人間の人生と歴史の中に神が働いておられる徴(しるし)・その体現となったのだ。これは、何でもない民族や、周りからは特別なところのない人と見られている人々・社会的地位も世間的評判もない人、そのような「全ての平凡な人々」を巻き込むことを伝える確かな物語となっている。ダビデの物語が語るのは、この古き惑星・地球にすむ人々の全ての中の圧倒的な大多数を巻き込む神の恵みである。神の目的に選ばれるためには、人気投票によってではない。神の目的に選ばれることとは、保証された能力や潜在的な可能性によって選ばれるのではない。……
信仰に生きる人を語る時、その見開きしたぺージにおいて、平信徒の姿を見せてくれる。 ―― このことに気づくことは、とても重要である。ダビデは聖職者として聖別されたのではない。「宣教のために」という言葉を、わたしたちはよく使う。ダビデはそのために神から呼び出されたのではない。ダビデは「単なる」平信徒、あるいは旧約聖書の言葉で「ハククアトンhaqqaton(小さきもの)」だった。しかし、ダビデの身分が不適格者であると語る内容は、ダビデの物語の中に、どこにも見られない。その物語に書かれているのは、愛と祈りと業において、萌え出てくる力強さを帯び、大胆で法外な、熟練し独創的な一人の人間である。
ガリラヤ湖の岸辺を通り過ぎる時、イエスはシモンとその兄弟アンデレとが網で漁をしているのを見た。漁はこの二人にとって毎日の仕事だった。イエスは二人に言った。「一緒に行こう。あなたたちを新しいタイプの漁師にしてあげよう。ハタや鮭の代わりに、人間を取る方法を教えよう。」二人はイエスに質問をしなかった。二人は網を捨ててイエスに従った。
―― マルコによる福音書1章16~18節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。