いいですか、神はわたしたちにイエスの中に御言葉をもって「現実」を啓示する。それは不思議で予想不可能で失望させるものだが、その「現実」に向き合わなければならない。課題が与えられていて、わたしたちがそれに応えて作り上げたような世界と、わたしたちが向き合うべき世界とは、全く違うのだ。自分が委員として参加している委員会が手配するような救いと、わたしたちの救いとは、全く違う。わたしたちの投票によって設定された賞罰の規定のようなものと、わたしたちに臨む神の裁きとは全く違う。わたしはテレサ・アヴィラ【1515年~1582年カルメラ会の創始者】が残した大胆な警告をとても好ましく感じている。彼女がカルメル会修道院の改革に精力的に従事してスペイン中を行き廻っていた時のことだった。とても悪い道を牛車で旅をしていたある日、彼女は牛車から泥の川に投げ出されたことがあった。その時、彼女は神に憤ってこう言った。「神よ、あなたはいつも、このようにあなたの友人を扱うのですか。どうりで、あなたには友人が少ないはずですね」、と。
いや、それは違う。神が御言葉をもってわたしたちに「現実」を啓示するが、その「現実」は、わたしたちが夢想したり考え付きそうな、どんなものとも違うのだ。 ―― 全然、別のものなのだ ―― これは実に有難いことである。というのも、もし、わたしたちがそこで十分に長く留まり、祈りに祈りを重ねているならば、どこまでも広大で、どこまでも愛らしく、どこまでも優れた「現実」の中に自分がいることに気づくのだ。だが、それに慣れるまでは相当の時間を要する。祈りとはそれに慣れるための過程なのだ。 ―― 祈ることによって、小さなものから大きなものへ、自分で制御可能なものから神秘的なもへ、自意識から魂へ ―― 神へと進む。さらに、神の御言葉によって「現実」を啓示される神は、その現実をわたしたちが分かればそれでよい、とは考えてはいない。その「現実」に従事し参与することを神は望んでおられる。
「読者ヨ、留意セヨ」(Caveat Lector) ―― ただ理解するだけではいけない。ただ、称賛するだけではいけない。その素晴らしさに思いを至らせるだけではいけない。「祈祷・祈ルコト(Oratio)」 ―― 聖書を読んだら祈りなさい。神が御言葉で啓示されたことに自分自身を投入しなさい。神は招いておられる。自分の言葉を神の言葉へと投入するように、そう、わたしたちに命じておられる。神が期待していることは、神が啓示した「新しい現実」を、わたしたちがただ受け取ることではない。神の御言葉が明らかにする「新しい現実」をただ受け止めるということは止めたほうがよい。神の御言葉はわたしたちを立ち上がらせ、歩き出させ、走り出させ、そして歌い出させるのだ。
あなたが話すことならば
わたしはそれを掴む。しがみつく。離れません。
神よ、わたしを失望させないでください!
あなたが敷いたレールを辿り、
わたしは走り続けます。
ですからどうぞ、あなたの道を示してください。
―― 詩編119編31~32節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。