「宗教的なテキスト」としてではなく、むしろ「ロールシャッハ心理テスト」のようにして、わたしたちは聖書を使ってしまうようになった。そうなったことは、それほど昔のことではない。つまり「インクで記された文字の中へと意味を探しに行く」読む方法だけで「その文字から大切なことを取り出す読み方」を怠るようになったのである。「スピリチュアル(霊性)」という語について、わたしたちはそれをまず自分たちのことと考えるようになり、ついでにそれは神の事柄でもあると考えるようになってしまった。そうなったのはそれ程昔のことではない。
そうしたことが起こると、それは往々にして起こるのだが、わたしたちクリスチャンの仲間、わたしたちの兄弟姉妹の一人が現れて、わたしたちの襟首を押さえて「読め、ここにあるものだけを読め、ここに記されているものを全部読め」と言って来る。(「読誦=Lectio」という古いラテン語で言い表しているのは、そういうことである。)この「読誦=Lectio」という古い言葉は、わたしたちが普通に使っている言葉に言い換えれば、「注意深く、訓練された仕方で読むこと」である。それは「釈義」と呼ばれるものである。わたしちには耳を傾け、読むべき御言葉が与えられている。それは神の御言葉である。そのために、わたしたちは御言葉を正しく理解しなければいけない。釈義とは、わたしたちが御言葉を正しく把握するために、聖書を丁寧に読むことである。
イエスは言われた。
「神の掟の中にある最も小さなもの一つでも
矮小化(わいしょうか)するなら、
必ず、あなたがた自身を矮小化することになる。
だが、それを真剣に受け止め、
その模範を人に示すなら、
あなたがたは御国で栄光に浴するだろう。」
―― マタイによる福音書5章19節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。