クリスチャンの生活の偉大な任務の一つは聖書に耳を傾けることである。礼拝は、そのための王道である。根本的なことを言えば、礼拝とは、神の言葉に傾聴する行為であり、神の言葉に応答する行為でもある。礼拝堂は、クリスチャンが集う不可欠な集会所である。学習室や講義室ではない。
信者には、礼拝とは別にもう一つ、聖書に耳を傾けることを上達させる方法がある。それは、聖書が物語としてわたしたちに語りかけてくることに気づくことである。聖書は、わたしたちに体系化された教理、あるいは道徳的命令として整えられた文書として語りかけることはしない。聖書は物語である。物語の形式というのは、その物語が示す真理と同じぐらいに重要である。この語り口の目的の一つはわたしたちの聖書の読み方を方向づけることである。というのも、わたしたちが歴史を通して働く神の御業に引き込まれることがなければ、わたしたちの霊的な生き方は豊かにならない。歴史とは始めがあり、終わりがあり、筋道がある。物語として聖書に聴く時、わたしたちも、またその物語の中にいる自分を見出し、神に向かって旅をし、神に向かって引き込まれることを学ぶのである。わたしたちは旅をし弟子となる実感を高める。もし、わたしたちがこのような「物語のセンス」を高めることにうまくいかないと、わたしたちは必然的に聖書を「応用し」始める。 ―― つまり、聖書の一節あるいは教理や道徳などを強く握りしめて、自分の中に存在する何かしらの欠陥を直そうとすることである。これは優秀なファリサイ人(聖書を読むのは得意だったが、神に聴くことは苦手であった)を生み出してしまう優れた秘策である。
イエスがこのように言われた。
「蒔かれた種は石地に落ちた。 ―― それはつまり、聴くとすぐ情熱的に応答する人のことである。その人格には土壌にあたるものがないので、感情的に消沈し、様々な困難がやってきて、感激が消え失せてしまうと、見るべきものが何もなくなってしまうのだ。」
―― マタイによる福音書13章20~21節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。