何時でも読むことが出来るようにと、聖書という形で「神の言葉」が書かれ印刷されている。これは大きな幸いと言えよう。しかし、神の言葉が書かれているということは一長一短なところがある。つまり聖書に「書かれている」というために「神の言葉」にいつも十分注意を向けることが困難になることがある。この困難は、霊的人生の只中に存在している。この困難は「所有権」という概念に端を発していると言ってもいい。 ―― いまここで「『神の言葉』がわたしたちを所有しているのではなく、むしろわたしたちが「神の言葉」を所有している」と考えてみれば、それが分かると思う。「聖書を一冊購入する」という、ただそれだけの単純な行為に、実は微妙な副作用がある。それに、わたしたちは向き合う必要がある。わたしたちが聖書を購入し、それを所有する。だから、「聖書を自分が欲する方法で使うことが出来る」と、そのように安易に考えてしまう。
クリスチャンの多くが読み書きが出来ない時代があった。その頃、この危険は深刻ではなかった。というのも、聖書は聴くもので、決して読むものではなかったからだ。まず、一つひとつの聖書の言葉は語られ、人はそれを聴いた。活字となる前、聖書の多くは、音声に乗って届けられ、人々に聴かれたのである。新約聖書にある「書簡」さえも、それらは手紙として最初に書かれたのだが、それらは、それぞれの手紙の宛先となった教会の中で大きな声で読まれ、人々はそれを聴いていたのである。
聴くことと、読むことは違う。わたしたちが耳に言葉が入ると、応答を促される。その時、何か出来事が起こる。人は言葉を聴く時、その片言隻句(へんげんせっく)やワン・フレーズを聴き取るに留まらず、それから一歩踏み出す、それを分析する。そうして、聴く人はいつしかメッセージを待ち望むようになる。語る者はメッセージ総体を提示し、それを聴くわたしたちは全人格で応答することになる。しかし、このメッセージが一旦書かれると如何なるのだろうか。その時、自分の思いに任せて、いつでも「聴くことを止める」ということが出来るようになる。
イエスは言った。「あなたがたは聖書を一度も読んだことがないのか。神が柴の所でモーセにこう言われた。わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。(であった、ではない)。生ける神は死んだ者の神ではなく生きている者の神だ。あなたがたは全く間違っている。」
―― マルコによる福音書12章26b~27節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。