次の抜粋は「牧師」を「主婦」「店長」「教師」「労働者」などに置き換えることが出来る。
わたしがドストエフスキーと初めて出会ったのは、彼の著書「白痴」に記されているムイシキン侯爵を通してであった。当時わたしは後に「職における聖なるもの」と呼ぶものを求めていたのだが、ムイシキン侯爵がそれがどういうものかを把握するイメージを広げてくれた。
この世をどう変えたらよいのか。この世は「はちゃめちゃ」である。人々は霊的困窮、道徳的退廃、物質的混迷に生きている。何か大がかりなオーバーホールが求められている。誰かが何かを「実践する」必要がある。「このわたし」が何かをしなければいけない。どこから始めたらいいのだろうか?
「自我の王国」に浸りきった文化で「神の国」を語る意味が何処にあるのか? 繊細、脆弱(ぜいじゃく)、壊れやすい言葉がお金や武器や脅迫者に対抗して生き残るにはどうすればいいのか? 無力な牧師たちに一体何ができるのだろうか? カントリー歌手、麻薬組織のボス(drug lords)、石油大企業家などに大金を払うのが、この社会である。
どうすれば健全なアイデンティティーを保つことが出来るのだろうか? わたしの周りではみんな、男性像・女性像・牧師像を「主義主張や権力」によって組み立てようとしている。それらの男性像・女性像・牧師像は、みな、何かを引き起こすような力と「これは重要だ」と印象づけるイメージに基づいた実に力強いものとなっている。しかしそれらのイメージはどれも、わたしの内に示される「神からの召命」と合致していない。それなのにどうも、現実には、神とは関係のないただの「野心」が「召命・天職」のように見えるのはなぜだろうか? ―― その謎を解いてくれるのがドストエフスキーのムイシキン侯爵なのだ。
彼は出会う全ての人に単純で天真爛漫な印象を与える。「ムイシキン侯爵はこの世がどう動いているかを知らない」という印象である。「ムイシキン侯爵は社会の複雑さを全く経験していない」。彼は「現実の世界」に無知である。つまり「白痴……」なのだ。
「召命・天職」とは一体何なのか ―― 社会にうんざりしている人が、この問題と向き合っている。
わたしは「どう」関わっていけばいいのか?
この問題と向き合う際、
中心に置くべきものは何なのか?
それは「銃」なのか「恵み」なのか?
ドストエフスキーはある種の登場人物を作り出した。その人物は「キリストのための愚者」である。「恵み」を選ぶ人々だ。ドストエフスキーは、キリストのために馬鹿になる登場人物を創作したのである。その中でも、わたしのお気に入りはムイシキン侯爵である。
イエスはこう言った。
「これこそ大いなる業、
わたしがあなたがたに天職として授けたものだ。
それに圧倒されてはいけない。
小さなことから始めることだ。
それが一番いい。
たとえば、喉が渇いている人に
一杯の冷たい水を差し上げることだ。
与えたり受けたりする、その最も小さな行為が、
あなたにとって本当の研修となるだろう。
あなたはその一点において、
報いを受け損なうことはない。」
―― マタイによる福音書10章42節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。